妖精殺し | ナノ


「………………」


眼を閉じずして、夢は見られない。であれば、これは紛れもない現実として捉えて良いのだろうか。

見慣れた天井。それを認識出来る自分。もう二度と戻らないと思っていたそれらを、化重は、ゆっくりと覚醒していく頭に取り入れた。


此処は、自室だ。毎朝毎晩眺めた天井の染みも、梁に出来た小さな傷も、記憶のそれと一致している。では自分は、自室のベッドの中で眠っていて、目が覚めたということか。

考えるまでもないことに辿り着くのに時間が掛かったのは、その眠りが未だかつてなく深く長いものだったからだろう。


どれだけ眠っていたか分からない。ただ、自分が長い間眠っていたということだけは漠然と理解出来た。

未だ目覚め切っていない体は、布団と同化しているようで、指先一つ引き剥がすのに苦労する。自分の体なのに、その動かし方を忘れてしまっているようだ。そんなことを思いながら、一先ず腕を上げてみようと試みて、化重は気が付いた。

動かそうとした腕が、どうにも重く、まるで何かに絡め取られているようだと訝って、眼を向けて。其処でようやく、彼はベッドの傍らにいる彼女に――春智に気が付いたのだ。


「おはようございます、化重さん」

「……お前、」


何時から其処に、と問おうとして、化重は口を噤んだ。問うまでもない。彼女はずっと、此処に居た。自分が眼を覚ますよりも前から、自分が此処に運び込まれてから、春智は此処で、自分が意識を取り戻すのを待っていたのだ。

祈るように両の手で握られた手と、ろくすっぽ眠れていないような顔をくしゃりとさせて微笑む春智を交互に見遣りながら、化重は抜け落ちた記憶のピースを当て嵌めた。


毒喰苹果の魂。その一部が勾軒によって祓われた直後、気を失って倒れた自分は、ストレリチア二階へと運び込まれたらしい。

魔術議会所有の医療機関や研究施設にいないのは、自分がそれほど深刻な状態に無かったからか。逆に、手の施しようがないと投げ出されたのか。はたまた、そのままバラさせるのを危惧した勾軒によって匿われているからなのか。

その辺りは聞いてみないことには分かり兼ねると思っていた化重であったが、答えは存外近くにあった。


「ドラゴンに似てるから……ですかね。サラマンダーでも影響があるみたいで……こうしてると落ち着いてくれてたんですよ、化重さん」

「…………」


何故手を握っているのかと訝られたように思ったらしい。気恥ずかしげに状況を説明する春智を見て、化重は色々と腑に落ちた。

あれだけサラマンダーの力を暴走させたにも関わらず、体は随分と落ち着いている。煮え滾っていた血は鎮まり、熱という熱は引き、眼に見える範囲では肉体の変容も窺えない。
最悪でも片腕は持っていかれるかと思っていたのだが、屠竜之技がサラマンダーにも適用されたことで、荒れ狂う力の奔流は見事制御されたようだ。

言うは易い。だが、これを成し遂げるのに、相当な時間と労力が掛かったことは、これまで眠りこけていた化重にも理解出来た。


いつ眼を覚ますのか、いつ容態が急変するのかも分からぬ自分の傍に寄り添い、祈りながら手を握り続けていた春智の顔を見れば、分かる。

きっと彼女は、苹果との戦いが終わってから今日までずっと、休息も睡眠も殆ど取らずに、此処にいた。朝から晩まで神経を張り詰め、眠りの中に在って尚、魔女を燃やせと滾る血を宥め、焼け爛れた心が疼いて魘される度に、強く手を握り締めていた。
だから自分は、今こうして此処にいるのだと、体の中を巡る彼女の魔力を感じながら、化重は握られた手を見つめる。

その眼が、決して人の物には戻らないことを春智は知っている。彼の髪や瞳が、如何にしてこの燃えるような色に染まったのかも。何故彼が其処に至ったのかも、全て。


「…………勾軒さんから、全部聞きました。化重さんに昔、何があったのか……」

「…………そうか」


化重が眠り続けている間、春智は勾軒から、彼の過去と経緯を伝えられた。

君にはそれを知る権利があると、勾軒は言った。だが、当の化重はそれを良しとしてくれるのか、春智は不安だった。


彼の抱える傷も痛みも、自分が想うよりずっと悲惨で凄絶で、惨憺たるものだった。自分なんかが踏み込めるものではなかったのだと、改めて痛感させられる程に。

だが、知らない振りをすることは出来ないと、春智は誤魔化すことを止めた。
きっとそれが何よりも、彼を傷付けることになるだろうと告解した春智に、化重はただ一言呟いただけで、それ以上何も言わない。

何となく予想は出来ていたのだろう。いや、覚悟が出来ていたというべきか。春智の手を振り払うこともせず、残る片腕を額の上に乗せて天井を眺める化重の顔が、それは致し方ないことだと物語る。それが無性に悲しくて、春智は彼の手をぎゅうと握りながら、酷く重い口を開いた。


「……化重さん、言ってましたね。幻想ハンターになることを選んだのは、自分が自分である為には、これしかないと思ったからだって」

「…………あぁ」


そんなこともあったなと言うように、化重が応える。その声はまるで、酷く遠い過去のことを回顧しているようで、心臓が搾られるように痛む。

彼は、過去も未来も、悉くを炎の中に放り投げ、魔女を討つ為の焚き木にしてきた。
全てはいつか失われる物で、自分の手から零れ落ちては塵になる。それが、既に”人”ではない自分の”生”であると、彼は諦めている。

春智はそれが、何よりも堪え難いのだと悲痛に眉根を寄せながらも、微笑んだ。


「でも……本当は、憧れていたからだったんですよね。自分を助け出してくれた勾軒さんに、心から憧れた。だから、貴方は幻想ハンターになりたいと願った。あの人のような……強くてかっこいい幻想ハンターになりたいって」


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