妖精殺し | ナノ



頭上から降ってきた、葉擦れのような声。その残響が消えるより早く、春智の視界がぐるりと逆巻いた。


強い力で押し倒された、というより、気を失って倒れ込んだようだった。

狭いビルの合間に横たわりながら、春智は、どう足掻いても起き上がってくれそうにない体の、つむじから爪先まで恐怖した。


彼女が、何も視えない人間であったなら、貧血を疑ったかもしれない。或いは、もしや心霊現象かと心を躍らせてみたかもしれない。だが春智は、そうしたものが確かに存在していることを知っている。

これまで害のないもの達ばかりを眼にしてきたが、考えたことはあるのだ。人を襲うだけの力を持ったものが、人に害成すものが存在していてもおかしくはない、と。


「……ッ!」

「はぁ……すげェや。一口齧っただけで、力がみなぎってくるゾ」


感覚ごと痺れたような体を、痛みだけが駆け抜ける。懸命に動かした眼が捉えたそれに、首筋を噛まれた痛みだ。

その一噛みはとても小さいが、ギザギザと波打つピラニアを彷彿とさせる鋭利な歯に肉を削がれたのだ。声を出せる状態であったなら、間違いなく叫び声を上げていた。それ程の激痛が、再び首筋から指の先まで電流を流す。もう一口、もう一口と、口の周りを血だらけにしたそれが、首の肉を食い千切ってきたのだ。

宛ら、傷口をグレープフルーツ用のスプーンで抉られていくような痛み。一口が小さいのが寧ろ拷問だと、春智は力無く切歯する。


どれだけ力を込めてみても、体は自分の意思に従ってくれない。無理矢理押さえつけられている、というより、あらゆる力が抜かれてしまっているようで、手も足もまるで動いてくれない。


首の後ろで血まみれになったそれは、一口こそ小さいが、もう既に体に見合わぬ量の血肉を啜っている。これがあとどれだけ自分を貪るのか。それは全くの未知数だ。

何せ、今し方自分を食い荒らしているものは、通常の生物の規格で量れるものではない。暗がりの中で薄らとした光を放つ、小さな体。背中に生えた、蝶に似た美しい翅。逆立った蒼白い髪に、宝石のような碧の眼。間違いない。これは――妖精だ。

あの夜に見たものと同じく、それは金色の鱗粉を振り巻きながら、造りものめいた小さな手に付着した春智の血を、薄桃色の舌で舐め取っては、また傷口に噛み付いてきた。

霞みがかった視界の端に、僅かに見える程度なので断言は出来ないが、確認し得る限り、その腹が食らった血肉で膨らんだ様子は無く。いよいよ、あれは満腹という概念を持たないものなのではないかと、春智は戦慄した。


もしこのまま、あの妖精が自分を喰らい続けたら、明日の朝には此処に残るものは骨と血だらけの衣服だけになっているだろう。きっと、野良猫やカラスさえも寄り付かず、忌々しい呪いの産物のように、自分であったものの残骸は取り残される。

そうして朝ぼらけを迎え、当たり前のように街が動き始めて、ふと誰かの眼について、騒ぎになって――それで、終わりだ。


警察に、犯人が妖精だなんて突き止められる訳がない。遺留品から、此処で死んだ人間が誰かを特定出来るだけ。誰も真実に辿り着けぬまま、此処で何が起きたのか知らぬまま、自分は片付けられてしまうのだ。

変わり果てた体は骨壺に納められ、竜ヶ丘春智という人間の存在は人々の記憶とアルバムの中に仕舞い込まれ、怪奇としか言いようのない死に方は未解決事件として処理され、この路地も何時か、何処にでもある雑居ビルの合間になってしまう。


嗚呼、そんなのは、そんなのは堪えられないと、春智は瞬きさえ出来なくなった眼から涙を零した。


ついに誰とも分かり合えぬままに死んでいくなんて、これ以上とない孤独だ。

結局この世界には、誰一人として自分の理解者は存在しなかったのだと刻み込まれながら生涯を終えるなんて、悲し過ぎる。自分は、こんな悲しみを知る為に生まれてきてしまったのかと、春智は自分の血液で濡れていくアスファルトを眺めた。


何時の間にか、凍えるような寒さに見舞われていたのは、血を流し過ぎたせいなのか。

ついにピクリとも動かなくなった指先をぼうっと見つめながら、春智は脳裏に彼の姿を浮かべた。


――せめて、彼と話が出来ていたのなら。妖精の存在について共有出来ていたのなら。そうしたら、こんなにも悲しくなることはなかったのに。


食い破られた首筋よりも痛む胸の中で、そう呟くと、春智は殆どぼやけて見えなくなった眼を閉じた。

抗ったところで何も出来やしないのだ。ならば、少しでも楽に死を迎え入れることが出来るよう、空想していよう。もし彼と言葉を交わすことが出来ていたらという、イフの世界を思い描こう。


どうか楽しい夢が見れますようにと星に願うように、春智は全てを手放した。そんな彼女の体を、妖精は依然、狂ったように貪り続ける。


「もっと……もっと喰えバ……もっと喰って、魔力をつければ……アイツだって怖くねェ」


必死で逃げ惑い、弱り果て、絶体絶命というところに通りかかった人間の少女は、霊木にも匹敵する力を持っていた。

しかも彼女は、その素晴らしい力の使い方を一切知らないようで、有象無象の人間達のように、自分の術にすんなりと掛かってくれた。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぼう。妖精は、咀嚼する度溢れ出す力に歓喜しながら、少女の肉を貪り喰らった。


喰えば喰うだけ、力が漲ってくる。まるで自分を構築するものが全て、端から新しい物に生まれ変わっていくかの如く、肌がざわめく、心が逸る。

髪の毛一本残すのさえ勿体ない。全て胃に納めてしまわなければ。そんな使命感めいたものに憑りつかれ、一心不乱に春智の肉を喰らう妖精の一口は、徐々に大きくなっていた。いや、大きくなっていたのは口そのものだ。

妖精の体は、春智の血肉から魔力を取り込むごとに増長し、全身から放たれる光も強くなり、背中の翅も四枚に増えている。

首回りの肉を少し齧っただけで、目に見えた変化が現れたのだ。彼女を喰い尽くす頃には、どうなっていることか。


「コイツの魔力を全部オレのものにすれば、アイツだって返り討ちダ。仲間達を殺したアイツを――」


と、妖精が恍惚とした笑みを浮かべながら、血まみれの口元を舌で拭った、その時。


「俺が、何だって」



その声に、耳の先が震えた時には遅かった。

反射的に退避へと移行しようとした刹那、妖精の胴体は撓うワイヤーに絡め取られ、宙に浮き上がったと思ったのも束の間。妖精は容赦ない力で地面に叩き付けられた。


「ピ、ギ…………ッ」


顔からアスファルトに振り下ろされ、より鋭利さを増した牙と鼻がへし折れた。その痛みに潰れた悲鳴を上げるや、妖精の体は再び宙を舞い、今度はビルの壁に打ち当てられる。

痛みと衝撃で、頭が眩み、意識が白む。だが気を失うより早く、胴を締めるワイヤーが収縮し、妖精の体は無骨な手に掴み取られた。


「ピギィィイ!!!」


慌てて脱出を試み、必死でもがくが、骨を軋らせる程の力で握り込まれて動けない。妖精は、皮手袋に覆われた拳を引っ掻くように腕を動かし、脚をばたつかせるが、それはただ、相手を苛立たせるだけだった。


「……まさか人間を襲うとはな。チッ、ますます手間取らせてくれるなぁ、オイ」

「い――痛い痛い痛い痛い痛い痛いィいいいいい!!!」


体が、握り潰される。そう危惧した妖精は一層暴れるが、暴れれば暴れるだけ拘束は強くなる。

このままでは背骨を折られ、内臓を破壊される。やがて妖精は体ではなく言葉による抵抗を始めた。


「おねが……お願イ……た、たス、助け」


恐怖から溢れる涙を零し、震える声で懸命に嘆願するが、拳に込められた力は一切緩まない。

妖精が死にもの狂いで足掻こうが、涙ながらに命乞いをしようが、無抵抗のままでいようが、彼が揺らぐことなど決してないのだ。


「……一目散に尻まくって逃げてたお前でも、聴こえてただろ」

「ヒ……ッ!!」


妖精は、それを知っている筈だった。此処まで逃げ延びる間、幾度も目の当たりにしてきた。それこそ、網膜の裏に焼き付いて離れなくなる程に。

断末魔飛び交う中。赤橙の瞳を研ぎ澄ませ、仲間達を次から次へと、無慈悲に屠った彼の姿を。


「同じように命乞いしてきたお前の仲間が、即座にとっ捕まった声がよ」

「ギ、ギィアアアアアアアアアア!!」


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