妖精殺し | ナノ



吹き荒ぶ風が、無造作を極めたように伸ばされた黒髪を弄ぶ。もし彼の姿を視えるものが在れば、その様を燃え盛る黒い炎のようと形容しただろう。

だが、彼が見下ろす街の中に、その姿を視認することが出来るものは無く。誰の眼にも止まることなき男は、ビルの屋上から賑わう市街を見渡す。


ありふれた駅前通り、ありふれたオフィス街。その向こうには、これまたありふれた住宅地。
何処にでもありそうなこの街に於いて、男は異端にして異質だ。都会の空を我がもの顔で飛び交うカラス達でさえ、彼を避けるように旋回している。

それを嘆くでもなく、疎むでもなく、男は淡々とした眼差しで、辺りを注視する。


この街に潜んでいる異端は、自分だけではない。こんな凡庸な街の中でも、異質は息づいている。それは、限りなく同じ世界に生きる者である自分によって刈り取られなければならないのだと、男がサングラスに隠された双眸を研いだ、その時。


「……あそこか」


視界の端に映り込んだ異常。それを取り逃がすまいと、男は身を翻し、軽やかに鉄柵を飛び越えて、ビルの上から降下した。


もし彼の姿を視ることが出来る者がいたのなら、飛び降り自殺だと叫び声を上げただろう。だが男は、自らの命を絶つ為にビルの屋上から跳び立ったのではない。寧ろ彼は、自らの手によって別の命を絶つ為に、飛び立ったのだ。

ギャアと悲鳴を上げて散開していくカラスの群れを置き去りに、男は風に乗るように――否。男は風に乗って、空を滑降していった。

その髪の根元よりも濃い色をした赤橙の眼で見据えた獲物を目指して。







「ち……るち…………はーるーちーっ!」

「ホアッ?!」

「何カンフマスターみたいな返事してんのよ」


あっという間に訪れた放課後。今日一日の大半、彼のことを思い浮かべては呆けて、教師に小突かれたり、チャイムに仰天させられたりしていたというのに、また同じことを繰り返してしまうとは。

友人の呼びかけに対し、素っ頓狂な返事をしてしまった春智は、今日何度目かの反省タイムを自嘲しながら苦々しい笑みを浮かべた。


「ごめん、何の話だっけ」

「今日、ファミレス行かないかって話」


一瞬でもぎくりとしてしまった自分を、春智は内心呪った。


妖精と、空飛ぶ男のことなど友人に話せる訳がない。その手のことを濁すのが年々上手くなって来ているとはいえ、気を緩めるのは厳禁だ。何処から綻びが生じるか、分かったものではないのだから。

自身にきつくそう言い聞かせていると、帰り支度をばっちり済ませた友人は、学校鞄を担ぎながら、春智の耳を通り抜けて行った話題を改めて口にしてくれた。


「くにちゃんが彼氏の愚痴聞いてくれるならドリングバーおごるって。春智も来る?」

「……ファミレスって、前に勉強会やったとこ?」

「特に決めてないけど……あそこにこだわりでもあんの?」

「いや、そういう訳じゃないんだけど……」


あの夜のことは、偶然と取るべきだろう。

件のファミリーレストランを始め、あの近辺は何度も足を運んでいるが、あれが最初で最後。妖精も男も、幻のように姿を消して以来、見ていないのだ。
だから、またあそこに行けば、なんて期待は埋玉すべきである。

そう分かっていても、もしかしたらが捨てきれない春智に、友人は小首を傾げたが、今日はそういう日なのだろうと特に言及することはせず、スカートのポケットから携帯を取り出した。


「ま、でもあそこでいいんじゃね。くにちゃんの好きなポップコーンシュリンプあるし、何より安い」


メッセージアプリのグループトークに今日の女子会開催地に、例のファミリーレストランはどうかと提案すると、即座に返答が来た。OKと親指を立てたマッチョのスタンプで。

くにちゃんこと匡塚文乃(くにづか・ふみの)のスタンプチョイスは、いつもこうだ。彼氏の既読スルーを回避する為、思わず一言返したくなるスタンプを選んでいるというが、普段使いの為にスタンダードな可愛いスタンプも買っておいた方がいいだろう。

そんなことを考えながら、友人は携帯を再びポケットに仕舞い込み、颯爽とセーラー服を翻した。


「んじゃ、そうと決まれば行きますか。ついでにCD借りてこっと。昨日ラジオで聴いた曲が頭から離れなくてさ…………って、春智?」


と、またも何処かを見つめて呆けている春智に、友人は本当に大丈夫かと訝んだ。

その視線に気が付いた春智は、これ以上は突っ込まれかねないと、慌てて鞄に荷物を詰め、席を立った。


「ごめん。行こう、麻結(まゆ)。早くしないと、お店混んじゃうかもしれないもんね」

「う……うん」


いそいそと背を押してくる春智が眺めていた先に目をやってみたが、其処には何の変哲もない教室があるだけ。

既に生徒の過半数は教室を出ている為、春智の視線の先にある机も軒並み空席だ。


――ならば、彼女は一体何を注視していたのか。


よもや其処に、手の平大のひよこのような球体がいることなど知る由もないまま、麻結は教室から吐き出されていくのであった。


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