霊食主義者の調理人 | ナノ


「…………」

「おはようございます、お嬢様。よく眠られていたようですね」


眼を覚ました時、羽美子はこれも悪い夢であればいいのにと、思わず顔を顰めた。

膳手に誘拐されてからまだ一夜が明けたばかりが、羽美子はもうこれ以上となく気が滅入っていた。誘拐犯のアジト――術式が施された対人トラップと、足場の悪い自然地形に護られた山の中にある廃屋――に閉じ込められて、鬱然としない方が無理な話だが。兎に角、自分を脅迫し、拉致監禁しておきながら、平然と笑みを浮かべてくる男の顔を見ると、首に嵌められた首輪の重みが増すように感じられる。

この首輪には術式が施されていたり、妙な仕掛けが組まれている、ということはない。ペットショップ等で購入出来そうな、ありふれた革製の首輪。プラス、此方は購入場所が限られていそうな、頑丈な鎖。どう足掻こうと、羽美子が逃げられやしないと分かっていても、万が一という理由で、膳手はこれを羽美子の首に着けて、鎖を寝台に繋いだ。全くいい趣味をしていると詰っても、彼は顔色一つ変えず、にこにこと笑むばかり。まともな会話や交渉は、やはり期待出来そうにない。

ますます気が滅入る、と寝台に腰掛けながら羽美子が肩を落とす中。膳手は傍らに置いていたサービングカートを押して、彼女の前でクロッシュを開けた。


「朝食が出来ております。お召し上がりください」

「……昨日の夜も言った筈よ、膳手」


昨晩から、羽美子は何も口にしていない。霊食主義者の名の通り、一般的な食事は勿論、霊すらも。此処に来てから羽美子は、何も食べていない。それは膳手が食事を出さないからではなく、彼女の意思だ。もしこの状況がこれから先続こうと、腐敗した残飯や砂埃でもいいから口にしたいと思う程に餓えようと、こんな、こんなものを食べて堪るかという強い意思で、羽美子は皿の上に乗せられたモノを睨み付けながら、唾を吐き捨てるような物言いで、膳手に反発する。


「私は、養殖の悪霊なんて食べたくないの。だから今すぐ……この霊を憑けた人を解放しなさい」


この廃屋には、羽美子と膳手以外にも十数人の人間がいる。正しくは、捕えられているというべきか。

彼等は”貯蔵庫”と呼ばれる地下室に収容され、其処で呻き声を上げながら、待っている。自分達に付けられた悪霊が食われるのを。苗床として選ばれてしまった体が解放されるのを。コンクリートの床に芋虫のように転がりながら、待ち続けている。

今、羽美子の眼の前に出された皿の上にいる悪霊も”貯蔵庫”にいる人間から取られたモノだ。


「昨晩も言いましたが……好き嫌いはいけませんよ、お嬢様」


昨晩出された食事も、そう。神喰邸を襲ったのも、そう。膳手が使役しているのは全て、彼自ら育てた悪霊だった。

彼は、霊的素養の高い人間に霊を付け、悪霊を量産・強化し、自然の流れでは決して生まれなかったであろう高ランクの悪霊を何体も産出してきた。
あの時――川村流介の一件で、中級悪魔なんてモノに当たったのも、タイミング良く膳手が現れたのも、そういうことだったのだ。


「養殖ではありますが、私の用意する悪霊は、天然モノより上質です。若い娘の生霊や、中級悪魔のように……必ずや貴方の舌を唸らせ、胃袋を満たし、その身に宿す澄子様の魂までも歓喜させることでしょう」


三日前、退魔師病棟を訪れた際、羽美子もまた、偶然酒々井親子と遭遇した。そして彼女も其処で、深々と頭を下げた沙綾の首筋に刻まれた焼印のような痕を見た。川村流介の首筋にもあった、魔術式の刻印に似た痕を――。

それで全てを悟った羽美子は、次の日の夜、膳手を問い質した。酒々井――もとい、畝方沙綾を知っているか。あの時、川村邸にいたのは何故なのか。今更になって自分の前に姿を現した、その意図は。
正面切って尋ねた瞬間。彼はまるで、その時を待ち侘びていたかのように歯を剥いて笑い――内に隠してきた狂気を曝け出した彼の手によって、神喰邸は落とされた。

呼び出された、あまりに強大な悪霊。瞬く間に蹴散らされたメイド達。自分を守り抜かんと必死に戦おうとした結崎。更に悪霊を呼び出し、彼等の命を摘み取ることも容易いと語った膳手。ならば、自分が抗う理由はないと、差し出された手を取って今に至るが、結局、膳手の本当の狙いは聞けず終いでいた。だが、今し方彼が何気なく漏らした一言で、羽美子は自分の中に浮き上がっていた一つの仮説に確信が持てた。


「膳手……貴方はまだ、お母様のことを…………」


彼が、母・澄子に心酔していたことは、羽美子もよく知っていた。膳手は心の底から澄子を慕い、敬い、彼女の為に尽くすことを至上の喜びとすると同時に、それを自らの使命と信じていた。全ては澄子の為。自分の体も、心も、命も、人生も、存在も。全ては澄子の為にあるのだと、彼自ら語らずとも、周囲が認知していた程度に、膳手は澄子を妄信していた。そんな彼が、五年経った今でも澄子のことを忘れられる訳がない。割り切れる訳がないのだ。


「……私にとって、澄子様は世界の全てでございました」

言いながら、膳手は羽美子から没収した霊餐のフォークで、皿の中を徒に突いた。フォークの先が当たる度、悪霊が声にならない声を上げ、痛みに悶える。それを嘲るでもなく、膳手は淡々と、手と口を動かす。


「彼女の力になれるのなら……彼女の幸福の礎となれるなら……彼女が私を必要としてくれるなら……。そうして生きてきたというのに、澄子様のいなくなった世界で、どうして生きろというのか……あの日からずっと考えてきました」


やがてブチッと短い音を立て、フォークの先には小分けにされた悪霊の肉片が突き刺さった。体を千切られた悪霊は、聞くに堪えない悲痛な叫びを上げるが、膳手は眉を顰めることさえせず、何処か機械じみた動きで悪霊を嬲るのを止めない。そうすることで、自分の体を食い破りそうなまでに溢れ出る衝動を発散しているかのように。


「貴方が澄子様の魂を食らったことで、澄子様は、貴方の体に完全なる霊餐を刻み込む術式と化してしまった。彼女はもう、この世にもあの世にもいない……どれだけ願おうと、焦がれようと、呼び出すことも蘇らせることも出来ない……。私は世界各国を巡り、あらゆる魔術を調べ尽しましたが……澄子様を取り戻す術も、彼女を創る術も見付かりませんでした。……ですが、ある時、私は気が付いたのです。澄子様はもう何処にもいない……だが、澄子様の魂は確かに、貴方の中に組み込まれている、と」


それでも、湧き上る昂揚を制御することは出来なかったのだろう。膳手は熱に浮かされたような顔をしながら、恍惚とした笑みを浮かべ、羽美子の顔を見据えた。


「貴方も自覚しているのでしょう、お嬢様。ご自分が、次第に澄子様に似てきているということに……」


誰よりも何よりも愛しい人によく似た少女。自分と出会う前の彼女は、きっとこんな姿であったのだろうと確信させる程に、この娘は気高く尊いあの人に似て、美しい。

嗚呼、間違いない。この少女は間違いなく、彼女を継ぐ者なのだと、膳手は怯えと動揺を孕んだ表情を見せる羽美子の顔を片手で掴み上げた。


「顔立ちだけではありません。思想や理念、信条、物の捉え方……。そうした内面的な、魂の形が、彼女と似通ってきているでしょう? 貴方が若干十歳にして、大人顔負けの達観した視点を有しているのも……貴方が霊餐を使う度に、貴方の中に組み込まれた澄子様の魂が影響を齎しているからです」


吐息が掛かる程の近さで、蛇が蛙を睨み付けるような眼で此方を見詰める膳手に、羽美子は思わずたじろいだ。

このままでは、自分の何もかもが、彼に平らげられてしまうようで。絶対にして最強の捕食者であった筈の羽美子は、初めて現れた敵を前に、竦んでしまった。


「膳手……貴方は一体、何を」

「もし本当に、貴方の中に澄子様の魂が残されているのなら……私が成すべきは一つ」


震える羽美子の唇を指で撫でながら、膳手は眼を細めた。


――この中に、彼女はいる。


噛み砕いたものを嚥下し、消化していくその器官に、失われた筈の神喰澄子は確かに存在している。あの日、目の前で見ていた筈なのに、どうして気が付くのが遅れてしまったのかと自嘲しながら、膳手は羽美子の口に手を掛けた。


「私自ら育てた悪霊でメニューを組み、貴方をより澄子様に近付ける……いや。貴方を第二の澄子様に成長させる。それこそ、私が専属調理人である意味。それこそ、貴方が澄子様の魂を食らった意味。そうだとは思いませんか? お嬢様」

「…………ッ!」


こじ開けられそうになる口を噤み、彼から必死に顔を逸らそうと足掻いても、十歳の少女が成人男性の力に抗える訳もなく。容易に押し倒された羽美子は、片手で顎を押さえられ、もう片方の手に持たれた霊餐のフォークを口の前に宛がわれた。


「さぁ、口を開けてください、お嬢様。貴方がこれを咀嚼しない限り……彼等は永遠に、悪霊に憑かれる苦しみから解放されないのですよ?」


フォークから、ソースと悪霊の体液が滴り落ちる。その一滴たりとて口にしてなるものかと、羽美子は懸命に暴れるが、膳手にとってそれは焼石に水。無駄な抵抗だ。


「一口たりとも残さないでくださいね。お嬢様」


力ずくで羽美子の口に指を入れて、舌の根まで抑え込むように開かせると、膳手は霊餐のフォークを中へ捩じ込んでいく。

だが、羽美子が悪霊の肉片を口にしてしまう寸前に、フォークは弾かれ、宙高くへと舞い上がった。


響く金属音。そこから間髪入れずに、膳手目掛けて飛来する銀色の光。寸前で躱しきった瞬間、膳手はそれが霊切り包丁であることを悟り――次の瞬間、彼は顔面を強く殴り付けられ、遠くへと吹き飛ばされた。


一体、何が起きたのか。

見開かれた眼に映る彼の姿を視認しても尚、羽美子には信じられなかった。


「……お前が、その呼び方をするんじゃねぇ」


巻き上がる砂煙を纏い立つ、背の高い男。此処に来る筈のない――来てはならない筈の彼が、どうしてと、声も出せずにいる羽美子の前で、男は霊切り包丁を翳す。この刃が光る内には、彼女の食卓を飾るのは自分の役目だと告げるかのように。

「この人をお嬢様と呼んでいいのは……この人に仕えている奴だけだ」

「い……ちょう……」


例えこれが、最後の調理になろうと。この先、自分がどうなろうと。神喰羽美子の専属調理人である矜持に懸けて、膳手尋彦を討つ。その屈強な意志を引っ提げて、伊調は向う。決して越えようのない壁の先に立つ、百年に一人の天才へ。


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