霊食主義者の調理人 | ナノ


「お母様、お母様! お願い、死なないで……お母様ぁ!」


痩せ細った肢体と機械を繋ぐ無数の管。それ無しには生きていけない体になってから間もなく、彼女の容態は急変し、医者から死の宣告を受けた。


「……羽美、子」

「お母様!」


泣き喚く我が子の声に、懸命に意識を繋ぎ止めながら。三十五歳という若さでこの世を去る恐怖さえ乗り越えて、彼女は力無く腕を伸ばす。

病に骨まで蝕まれ、少し動かすだけで体が酷く痛むというのに。彼女は最後の力を振り絞って、愛しい娘の頬を撫で、流れ落ちる涙を拭おうとする。これが最後になることを、誰よりも、何よりも理解していたから。


「……ごめんなさい。まだ、こんなに幼い貴方を置いて……私……」

「イヤ……そんなこと言わないで……」


そんな母の腕に縋り付きながら、羽美子は必死に首を振った。

謝られたくなどなかった。別れを思わせる言葉など、聞きたくもなかった。当時、未だたったの五歳であった羽美子には、母の死というあまりに大きな悲しみは、とても堪えられなくて。考えただけで心臓が潰れてしまいそうなくらい辛くて。だから、どうか置いていかないでくれと駄々を捏ねるように、羽美子は嘆願した。それが叶わぬ願いだと分かっていても。


「お願い、お母様。私、いい子にするから……だから、いかないで、お母様。お願い……」

「……本当に、ごめんね。羽美子」


可哀想なくらい泣きじゃくる娘を抱き寄せてやることも出来ず。ただ謝るしか出来ない澄子は、酷く悲しそうな顔をしながら、それでも優しく微笑んだ。

最後なのだから、せめて笑顔でいなければという意思もあった。我が子が大きくなってから想い出す顔が、泣き顔ではいけないだろうという意地にも近い想いもあった。だが何より、こんなにも心を痛め、泣き咽んでいる娘の悲しみを、少しでも和らげたいという願いがあって。澄子は、愛娘を元気付けるように、出来る限りの笑みを作ってみせた。


「……羽美子。私のことを、呪ってもいい。恨んでもいい。だけど、どうか……この世界を憎まないで。貴方自身の運命を嘆かないで」

「お母様、」

「貴方は……多くの人と魂を救うことが出来る希望なの。その宿命は、貴方を苦しめるかもしれない……でも、どうか……ゴホッ、ゴホッ!!」

「澄子様!!」


けれど、そんな彼女を嘲るように、苦痛の波は押し寄せ、着実に迫り来る死を痛感させる。その痛々しさに音を上げたのは、膳手だった。


「もう……もう、喋らないでください、澄子様!! これ以上は――」

「……膳手」


澄子が危篤状態に陥ったことを聞いてからずっと、彼は奇跡を待っていた。神の気まぐれでも、運命の流転でもいい。此処で峠を越えて、病状が落ち着いて、死の淵から蘇った彼女が、少し照れ臭そうに笑ってみせる――。そんな奇跡が来る筈だと信じていなければ、気が狂ってしまいそうで。その時が来るまで、何とか彼女を繋ぎ止めようと、膳手は少しでも体に掛かる負担を減らすべきだと進言するが、澄子にはもう、見えていた。自分がもう、助かりようのない状況であることも。此処で何をしようと、終わりの時が決まっていることも。


「羽美子のこと……お願い。貴方の素晴らしい力を……この子に貸してあげて。私の愛しい子を……守ってあげて」

「そんな……澄子様!!」

「……もう、時間だわ」


尚も抗う膳手に眉を下げつつ、澄子は軋るように痛む肺で、深く呼吸した。


――あと、どれだけ息をしていられるか。あと幾つ、我が子に言葉を残してやれるか。

正確な数は分からないが、もう、長くは持たないことは確かだ。今此処で切り出さなければ、取り返しがつかない。澄子は意を決し、最後の力を振り絞り、窶れた腕を自身の胸へと宛がった。


「羽美子。これから貴方に……霊餐を授与するわ」

「澄子様!!」

「神喰当主が受け継いできた、最強の退魔術……。霊餐は、魂を食らう術……。だけど……私達は生まれながらに、魂を食らう術は既に会得している……。これから貴方が得るのは……食らった魂を消化する方法……」


膳手の制止も聞かず、澄子はもう一度、深く息を吸い込んだ。同時に、彼女の心臓部が白銀色の光を放ち――やがてそれは、彼女の両手の平へと現れた。


「……お母、様」

「……神喰当主は、代々……先代の魂を食らうことで、完全なる霊餐を得てきた。私も、私の母も、祖母も、その前の当主達も……そして、貴方も」


問うまでもなく、羽美子はそれが何なのかを理解した。眩く輝く、光の球体。酷く芳醇な香りを放つそれが何か――羽美子の中に流れる血が、その答えを知っていた。


「やだ……お母様……私…………そんなのイヤ」

「……そうよね。嫌よね……辛いわよね、羽美子」


頭と言葉で拒めど、体中がざわめくような本能が、堪らなくそれを欲するのが、ただひたすらに憎かった。悍ましかった。

心と体が剥離するような不快感。禁断の果実に手を伸ばすかのような罪悪感。罪を齧ることへの嫌悪。自らの手で、母に終止符を打つことへの恐怖。それらを全て平らげるような欲望に苛まれる。息を止めても体を満たすような、甘い香りによって毒される。そして、そうされることを望む母の切なる願いに、羽美子の想いは縊られる。


「貴方はまだ、たった五歳なのに……母親の魂を食らって、退魔師にならなきゃならないなんて……嫌に決まってるわよね……」


どうしようもなく悲しくて、悔しくて、涙が溢れて止まらない。嫌なのに。拒みたいのに。そうしなければならないことを、体に流れる血潮が知っている。神喰の家に生まれ落ちたその時から、こうなることは逃れられない運命であったのだと、諭されるまでもなく分かるのに。


「だけど……霊餐は、引き継がれなければならない。神喰の力で、生きる人々を……輪廻に還れない魂を救う為……。先祖代々受け継いできたこの力を……途絶えさせてはいけないの……」

「でも……でもぉ……ッ」

「……羽美子」


それでも、母の命をこの手で奪うような真似はとても出来ないと項垂れる羽美子に、澄子は祈りの言葉を遺す。それが、呪いの言葉になることなど、思いもせずに。


「お願い。私の代わりに……皆を救って」


彼女のその一言で、羽美子は事切れたように泣き喚くのを止めた。覚悟を決めたような。全てを悟ったような。そんな、子供らしからぬ顔をして。


「……羽美子様、まさか」


慌てて彼女を止めようと伸ばし掛けた膳手の腕を、結崎が黙って掴む。その、嫌に力強い手を振り払う間もなく、膳手の目の前で、羽美子は一度引いた波に飲み込まれるように、頭を掻き抱いた。


「…………う、うぅううううううっ」


血が滲む程、歯を食い縛る。その痛みと、己の罪を噛み締めるように。母が倒れる前に預かったフォークを落しそうな手の震えを抑え込むように。

何処か遠くから聞こえてくる膳手の叫ぶ声を振り切って。羽美子は、フォークを握り締めた手を――。


「うああああああああああああああああああ!!!」


其処から先のことを、羽美子はあまり覚えていない。

おぼろげな記憶の中に焼き付いているのは、最初に食べた魂が、あまりに優しい味をしていたことと、泣き叫ぶ膳手の声の向こうからぽつりと響いた「ごめんね、羽美子」という、亡き母の最後の言葉だけだった。


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