楽園のシラベ | ナノ
二人と一羽の、楽園《アガルタ》を目指す旅が始まって、早いもので半月が経過した。
キャラバンは幾つかの町や村を経由しながら、順調に南へと進み、現在は、キャロラベル大陸に点在する山脈の一つ、ロックベイ山脈に通る山道を走っていた。
行商用に拓かれた山道の両脇は、木々と、時折「クマ注意」「落石注意」と言った標札が見える。
時たま、茂みから此方を覗く動物や、小さな花が群れを成しているのにエンカウントする。
故郷の村とは、また生態系が微妙に異なるらしい。見たこともないような植物や小動物が度々目に映る。
見ている分には退屈しない道だと、リヴェルは麓の売店で購入した胡桃パンを口に放った。
「途中幾つか村やキャンプ場があるから、其処らで休憩しながら山越えだ。かなり時間を食らうが、山ん中だからな。慎重に進むぜ」
「アイサー」
すっかり冷めたコーヒーを呷り、シラベはハンドルを切っていく。
各地を回っているので、山道も慣れているのだろう。キャラバンは安定した走行を続けている。
均された地面の上を走っているので、時折思わぬ揺れに見舞われるし、大きなカーブに当たることもある。
それでも、それなりに快適なのは、シラベの手慣れた運転と、開け放たれた窓から入ってくる風や、緑の匂いがあるからだろう。
胡桃パンを一欠片ちぎって、シソツクネに食わせてやりつつ、リヴェルはそれとなく、フロントガラスの向こうに目をやった。
先に広がるものは、凡そ緑。木々を掻き分けるようにキャラバンが進んでいくと、やがて視界にひらひらと揺れる白い物が映った。
「……ん?」
リヴェルが思わず眉を顰める隣で、シラベも、同じ物が見えたのだろう。サングラスを軽く下げて、「なんだありゃ」とキャラバンを減速させた。
ある程度近付いてきたところで、それは、地面に突き立てられた枝に括られた、一枚の布であることが分かった。
更に距離を詰めたところで、布には「助けて!」と赤い液体で書かれていることも分かった。
そうして、枝のすぐ傍で倒れている大柄な男の姿が見えたところで、リヴェルは静かに、かつ緩やかに青褪めた。
「……行き倒れ、だよな」
「だな」
「いや、なに普通に進もうとしてんだよテメェ!! 行き倒れだぞ!!」
が、シラベは全く揺らぎを見せることなく、アクセルを踏み込んだので、リヴェルは思わず彼の頭を思い切り引っ叩いた。
勢いのままに叩かれた衝撃で、サングラスが盛大にズレたシラベの胸元を掴みあげると、ちゃんと見ろと言わんばかりに、リヴェルは必死の形相で男を指差す。
しかし、それでもシラベは動じることなく。正確にハンドルを切りながら、淡々と告げた。
「ああやって、行き倒れを装う野盗が山には多いんだよ。ダイジョウブデスカーなんて近付いてったら、茂みから仲間がゾロゾロと……ってことも珍しくねぇぞ」
「てめぇそれでも人間かよ?!! 罠じゃなくて、マジに困ってたらどうすんだよ!!」
「ヒッチハイク装ってハイジャックしてきた奴がいるから警戒してんだがなぁ」
「悪かった!!! でも車停めろ!! お願いだから!!!」
「はーーーっ、美味かった! ごちそう様でした!!」
有事に備えて多めに積んでいた食糧を綺麗さっぱり平らげて、パンっと両手を合わせた青年に、シラベは「お粗末様でした」と、いっそ感心したような溜め息を吐いた。
結局、リヴェルの嘆願と威勢に根負けしたシラベは、倒れていた青年を助け起こすことにした。
どうやら、本当の行き倒れだったらしく、青年は呼び掛けにも殆ど応じることなく、ただただ腹の虫を鳴かせていた。
ならば仕方あるまいと、シラベはキャラバンから水と食糧を持ってこさせて、それを青年に与えたのだが。
袋を開けると同時に飛び起きて、それらを強奪するかの如く掻っ攫って、口に流し込んでいった時は、リヴェルも面食らったものだった。
何日も食っていなかったのか。時に噎せながらも、青年は無我夢中で食べて、飲んで。
それが余りに必死だったのと、シソツクネまでも食べようとしてきたので、次から次へと食糧を与えてやった結果。気が付いた時には、シラベ達の手元には、パンの一欠片も残らなかった。
「いやぁ、助かりました。道に迷って、食糧も底をつき……食べられるものを探す体力さえ尽きて、もう駄目かと思ったっす。本当に、ありがとうございました」
「請求書は、お前宛てに出していいか? リヴェル」
「か、勘弁してくれよ!! こいつ、どんだけ食ったと思ってんだよ!!」
「冗談だ」
蒼白するリヴェルの頭を、先程のお返しにと軽く叩くと、青年が「でへへ、すいません」と照れ臭そうに笑ってきた。
赤黒い、獣の体毛めいた長髪で目元は殆ど隠れているのだが、口元だけでも十二分に、彼が懐っこい笑みを浮かべているのが窺える。
シラベはやれやれと肩を落としながら、煙草を取り出して、一本口に咥えた。
「ところでお前……そのナリからするに、ここらの新人類じゃねぇな。旅人か?」
「あ、そういや自己紹介がまだでしたね。俺は、クルィーク・グイネヴィア。訳あって、アストカから来たっす」
「アストカ……って、大陸の最北端じゃねーか!」
「そ、そんな遠くから来たのか、お前?!」
笑う度に、肩と一緒に揺れる、後頭部から前方に生えた象牙。座っていても、相当大柄――恐らく、身長二メートル前後であることが分かる巨躯。
その見た目から、北部出身の新人類だろうとは思っていたシラベだが、青年・クルィークの言葉に思わず瞠目した。
シラベ達のように、車で移動している様子ではない。
重たいリュックを背負い、象のように大きく皮の厚い足で歩いてきたのが、所々傷んでいる服を見れば分かる。無論、何処かでヒッチハイクしたり、列車を使ったりということもあったろうが。
それにしても、その身一つで北の果てからやって来るとは。
呆気にとられながらも、大したもんだとシラベは紫煙を吐き出した。
「……で、そんな遠路遥々、何しにこんな山ん中に」
「いやぁ、ちょっと探し物がありまして。あんた達も、見た感じこの辺の人じゃなさそうっすけど……えっと」
「俺はシラベ、旅商人だ。で、こいつはちょいと面倒な事情で同行してる」
「……リヴェル・ペコレーラだ」
「それと、お前がさっき食おうとしたこいつは、うちの看板鳥のシソツクネ」
「あっはっは。ごめんなさい、マジで腹減ってたもんで」
「ウルセー!! ソレデ許サレルナラ、オマワリハイラネーゾ!!」
「で、シラベさん。あんた、旅商人ってことは、色んなとこ回ってるんっすよね」
「まぁな」
喚くシソツクネに突かれながらも、クルィークは飄々と話を続ける。
長く伸びた前髪から、好奇と感心と、昂揚で煌めいている眼が垣間見えたのも束の間。
思いがけないクルィークの言葉に、シラベとリヴェルは度胆を抜かれた。
「じゃあ、《アガルタ》って何処にあるか知ってないっすか?! 俺、其処に行きたくってアストカから来たんっすよ!!」
「ブッフォ!!!」
深く吸い込んだ紫煙が、素っ頓狂な声と共に、鼻と口から噴き出る。
隣でボトルに口を付けていたリヴェルも、気管に水が入ってしまい、酷く噎せた。
が、クルィークは特に気にした様子もなく――というか、二人の様子が、目に入っていないのだろう。夢や希望で輝く面持ちで、此方に詰め寄ってくる。
「誰に聞いても知らないってんで、相当な秘境にあるんじゃないかって山ん中も歩いて探してみてるんっすけど、もう全っ然見付からなくて! 凡その方角とかだけでも知ってないっすかね?」
「オイオイオイオイ。最近はあれなのか、無茶無謀な楽園探索ツアーが若者の間で流行ってんのか? この短期間で、二人も御伽話レベルの存在を求めるドリーマーに当たるって、おかしいだろ」
「この調子だと、《アガルタ》に着く頃には大名行列になってるかもな」
「えっ?! まさか、二人も《アガルタ》に?!」
呆れたと額に手を当てるシラベの反応にさえ、クルィークは喜色を見せた。
その気持ちが、リヴェルには分からないでもなかった。
彼女もまた、彼と同じく、宛てもなく彷徨うように、《アガルタ》を目指してきたのだ。
終わりの見えない暗がりを歩いていたところに、正しい道へと手を引いてくれる者に出会えた喜び。
リヴェルは、素直に表現出来ぬままに今に至ったが。今のクルィークのように、大袈裟過ぎるくらいに、はしゃいでしまいたい想いがあった。
だからこそ、リヴェルには分からなかった。
「行き倒れてたとこを助けてくれた人が、同じ場所を目指して旅してたなんて! これはもう奇跡、いや! 運命っすね!!」
先の見えない旅路で、絶望の泥糠の中を歩いていながら、どうしてそうも明るくいられているのか。
クルィークにまるで陰りが見えていないのがさっぱり理解出来ず、リヴェルは彼に同調しきれずにいて。
シラベもまた、北の果てから此処までやってくる程の動機が見えないと、口をへの字にしていた。
「お願いします! どうか俺も、お二人に同行させてくださいっす!! 炊事洗濯雑用、商売のお手伝い、なんでもやりますから!!」
「……って、言われてもなぁ」
拝むように頼み込んでくるクルィークに、一同は難色を示した。
同行を快諾するには、彼には幾つか不透明な点があって。シラベは頷けず、リヴェルも促すことが出来なかった。
リヴェルは、並々ならぬ想いに駆られ、《アガルタ》を目指している。
其処からやってきたというシラベもまた、何らかの事情を抱えながらも、彼女の必死な意志を汲み、楽園への道を案内することを決意した。
二人共、それぞれ半端な気持ちでこの旅に臨んでいる訳ではない。
故に、不用意に同行者を増やすということは、望ましくなかったのだ。
「……一つ聞くが、お前さん、なんで《アガルタ》の為にこんなとこまで? アストカから此処まで来るくらいだ。相応の理由があるんだろ?」
クルィークにも、何かしらの想いはあるだろう。そうでなければ、アストカから単身、歩いて此処まで来ることなど、出来はしない。
だが、彼が異常な放蕩者である、というのも考えられる。
劇的に環境が変わり、各地に出来た前人未踏の地に挑みたいという冒険者も、珍しくない。
彼等は、新世代の星を解き明かし、時代に名を残したいとする粋狂な輩で、先が見えないということを好むような、オプティミストが多い。
クルィークがもし、そういう人種で、《アガルタ》を目指すこと自体が旅の目的であるのなら、同行を断ろうと、シラベは考えた。
そんな思考が張り巡らされていることなど露知らず。クルィークは、「話せば少し長いんっすけど、いいっすか?」と前置きをして、話を始めた。
「俺の故郷は、年中雪が積もってる山の中の集落で……植物なんか毛程も育たない場所なんで、みんな狩猟で生活してるんっすよ。
けど、俺が生まれた頃くらいから、山に移民が増えてきて……こっちも向こうも食べる為に狩りするもんだから、動物の数が減って、大揉めしちゃって。結果、お互いに潰し合いを始めて、今も牽制ムードなんっす」
凍土と雪山が広がるツンドラ地帯。川も大地も凍りつき、小さなコケ植物が僅かに存在する程度の氷の世界。
其処に生息する鹿や熊を狩って暮らす狩人の集落に、クルィークは生まれた。
見渡す限り白い山々。進化の過程で得た体毛や、激烈な寒さを凌ぐ為に発達した器官を以てしても、暮らしていくのは厳しい世界。
それでも狩人達は、山を駆け、獲物を追い、その肉の一片、毛皮も骨も残さず頂戴し、強く、逞しく生きてきた。
自然の猛威に呑まれ、居場所を失った移民達によって、山のサイクルが著しく乱されるまでは――。
「そんな時、《アガルタ》の噂……あらゆる奇跡が集う楽園のことを聞いて、これしかないと思ったんっす! 安定して食べれるものさえあれば、みんな安心。動物の数も戻って、万々歳じゃないっすか。だから、故郷の凍土でも育つような農作物とかないかなーって聞きに行こうと、旅に出ることにしたんっす。
《アガルタ》が無くても、もしかしたらどっかに、そいういうものがあるかもしれないっすし」
「……それで、アストカからこんなとこまで」
「いやー、本当にあるのかどうか分からなかったんで不安だったんっすけど、ホントにあるみたいで安心したっす! お二人に出会えたんだ、行き倒れた甲斐もあるってもんっすね!」
楽観的なのは、真性のものに違いないが、彼は彼なりの信念を持って、旅を始め、こんなところまでやってきていた。
それでも、持ち前の明るさを失っていないのは、彼が純粋に、信じているからだろう。
奇跡や、運命といったものを。それと同等の存在である《アガルタ》の存在を。夢物語をこの手に掴んで、故郷に希望を持ち帰る未来を。
クルィークは、疑うこともせず、がむしゃらに足を進めてきている。
呆れる程、楽天的。だが、彼が故郷にかける想いは、本物だ。
「そーいう訳なので!!」
事情を洗い浚い話し終えたところで、クルィークは改めて、と両手を合わせて、頭を下げた。
軽薄に見えるが、彼はこれで、実に真剣だ。
彼とて、宛てのない旅をいつまでも続けていたくはない。最短の道があるならそれを使って、いち早く故郷に、希望の一粒を持ち帰りたい。
故に、彼はシラベ達に同行させてほしいと頼んでいるのだ。
「どうかお願いします、シラベさん! せめて、《アガルタ》への行き方だけでも、何卒!!」
クルィークにも、のっぴきならない事情があり、彼も自分同様、《アガルタ》に縋る以外に道がない。
それを知ったリヴェルは、軽くシラベの服を引いた。
決定権は、シラベにある。クルィークをキャラバンに加えるのも、此処で突き離すのも、道筋だけでも教えてやるのも、彼が決めることだ。
彼に案内されている身分で、文句を言える立場ではないから、リヴェルは静かに訴えることしか出来ずにいた。
それに、案ずるな、と答えるように、リヴェルの頭をぽんぽんと叩いて。シラベはその手を、クルィークへと伸ばした。
「……《アガルタ》は、教えたところで、行けるような場所じゃねぇ。こんな山の中で行き倒れるような奴なら、尚更だ」
恐る恐る顔を上げたクルィークは、差し出された手を見て、暫しきょとんとしていたが。
間もなく、シラベがにっかりと口角を上げて笑ったのを目にして、クルィークはぱぁっと表情を明るめた。
「てめぇが食った飯の分も、きっかり働けよ、クルィーク。うちの方針は、働かざるもの食うべからず、だ」
「……はいっ!! よろしくお願いします、シラベさん!!」