楽園のシラベ | ナノ


無情とも言える早さで時間は流れ、日は没した。

海は暗く染まり、同じ色をした空には満天の星々が煌めき、月明かりが仄かに辺りを照らす。聴こえるのは、波の音と虫の鳴き声。それと、風に揺れる木々のささやかなざわめきだけ。
そんな静かな夜に、リヴェルは一人、宿屋のベランダに座って、外を眺めていた。

結局、何処かから戻ってきたシラベと合流した後も、彼との間に出来た妙な蟠りは解けず。最後の晩餐も、この料理が美味いだの、昼間に海でこんな魚を見ただの、当たり障りのない会話をぽつぽつとしただけで終わった。

彼が、単独で何処に向かっていたのか、其処で何をしていたのか。今、何を想っているのかさえ、リヴェルは聞けなかった。
尋ねてもシラベは答えてくれなそうだし、最後の最後で、だんまりを決め込まれたくなかった。

無難な話であれば、シラベは普通に、こっちも美味いぞと皿を差し出してくれたり、潜ればもっとすごい魚がいるだのと、言葉を返してくれる。
多少の気まずさこそあるが、これ以上の悪化を招くよりはマシだし、明日の朝になればシラベはいつも通りになっているかもしれない。

明日こそ、本当の本当に最後だからと、嫌でも本調子を取り戻してくれるかもしれない。

だから、変に探りを入れて、彼の気を悪くさせることは止めようと、リヴェルは詮索せずにいた。


――これで本当にいいのか。


いよいよ、後は床に入って朝を待つだけになった時間になっても、正解は見えない。
手を伸ばして、無理にでも掴んだらいいのか。このまま、見過ごしていればいいのか。

もう何度目かの自問自答も、溜め息を夜に溶かすだけに終わる。
こんなにも月が明るく、星も瞬いている夜なのに、その輝きも今は、虚しいだけ。

なんだか、勿体ないことをしている気分だと、リヴェルはまた一つ、憂鬱な息を零した。その時だ。


「なんだ、まだ起きてたのか」


振り向けば、首にタオルを提げ、珍しくサングラスをしていないシラベがいた。

そういえば先刻、風呂に行くと言って部屋を出ていたか。
それも、ついさっきのことのような、随分前のような――なんて思っていると、肩に何か掛けられた。

袖なしの、ワンピースタイプの寝間着から剥き出しの肌に触れた柔らかいそれは、タオルケットだった。


「夜風に当たるのもいいが、あんま長居してっと風邪引くぞ」


そう言って、シラベはリヴェルの隣に座り込んで、手に持っていた酒の缶を開けた。

部屋に備え付けられている冷蔵庫に入っていたものだろう。
人に風邪を引くぞと言いながら、自分は未だ髪が乾ききっていない状態で、キンキンに冷えた酒を呷るなんて。

リヴェルは、掛けられたタオルケットを羽織り直しながら、小さく唇を尖らせた。
子供扱いしやがってと思う反面、気遣われて嬉しいと感じている自分がいる。

相対するようで、実は同じとこから伸びているこの感情。それを知りもせず、呑気に夜景を肴に酒を飲むシラベが、小憎たらしい。

だが、知られたら知られたでとても困る。
自分の心だというのに、全く面倒で厄介なことだと、リヴェルは不貞腐れたような顔を、海の方へ向けた。

今は境目さえ分からない暗がりの水平線から、太陽が昇れば、いよいよ最後の日がやって来る。当たり前にシラベがいる日々も、明日には終わる。
こんな風に、彼の一挙一動に心を乱されることもないのだと、リヴェルは身を縮めた。


これが、シラベと過ごす最後の夜になる。

しとしとと雨の降る日もあった。風が強くて、中々寝付けない日もあった。
宿で過ごす日もあれば、キャラバンのベッドを使う日もあった。
ベッドが一つだけの部屋しか空いていないと言われて、文句を言いながらソファで眠る彼を余所に、悠々と寝転んでいた日もあった。
くだらないことで怒ってシラベに枕を投げつけたり、寝惚けて夜中にベッドから転落したり、シソツクネが鼾をかいて三人揃って目覚めたこともあった。

数ヶ月の間、過ごしてきた日々を思い返し、リヴェルはぎゅうとタオルケットを握る。

今日のことも、明日には思い出になってしまう。
シラベがいない場所で、今日のことを思い返した時。自分は果たして、他の日々と同様に、これを尊ぶことが出来るだろうか。

目蓋を下ろし、暫し思考して――リヴェルは小さな決心をすると、恐る恐る唇を開いた。


「…………あのさ、シラベ」

「ん?」

「……アンタ、これからどうするの?」


リヴェルの問い掛けに、シラベは、残りの酒を呷ろうと、缶を傾けかけていた手を、ぴたりと止めた。

予期せぬ質問に驚いた――というより、そこに込められたリヴェルの真意が気掛かりで。シラベは、缶を持つ手を下ろして、リヴェルに問い返した。


「これから、って」

「……《アガルタ》に着いてから」


聞いたところで、どうしようもないことだ。

楽園という終着点に辿り着けば、二人揃ってのこれからなどない。お互いの行く末など、尋ねたところで仕方ない。

それでも、シラベと離れる寂しさや、再び一人になる不安を埋めるものが、リヴェルは欲しかった。


「奇跡が手に入ったら、クルィークは故郷に戻って、私は母さん探しと敵討ち、だけどさ……シラベは、この先どうすんのかなって、思って……」


シラベが、自分と出会う前のように世界を周って旅をするというのなら、いつか何処かで会えるかもしれない。

あるかないかも分からないが、もし彼にも、定期的に戻る家があって、其処に一度帰るというのなら、全てが終わってから尋ねてみたい。

そんな、淡い期待や希望を、新たに始まる旅の伴にして、リヴェルはシラベのいないこれからを乗り越えたかったのだ。


――シラベと離れてもいい。遠い何処かにいる彼との繋がりを、微かにでも感じられていれば。自分はそれだけで、きっと平気だから。


それは、彼女が必死に見出した、妥協だった。
本心は、この先もシラベと一緒にいたい。叶うのならば、楽園の先――リヴェルのこれからに、彼がいてほしい。

だが、それはとても傲慢なことだと、リヴェルは想いを押し殺した。

クルィークに言った通り。此処まで彼が自分に付き合ってくれただけで、十分過ぎるのだ。これ以上を求めてはいけないし、シラベとは、こんな望みを叶えてもらえるような間柄ではない。

だから、これだけを持って、彼のいない先へ歩き出すのだと。そんな縋り付くような想いで、尋ねたリヴェルだったが。
皮肉なことに、それが最悪の引き鉄を引いて、シラベの胸に穴を開けてしまった。


「……俺には、何もねぇよ」


海も、風も、自分自身さえも。全てが凍て付いたような感覚に、リヴェルは眼を見開いた。

頭の中はこれ以上となく振盪している筈なのに、身も心も、震えもせずに凍えている。
一瞬で注ぎ込まれた鬼胎が、リヴェルから体温を奪い去る。
それに気付きもせず、シラベは淡々と、己の綻びを穿り返すように吐露していく。
彼女が問うた、自身のこれからを。楽園の果てに待ち受ける、逃れようのない自らの運命を――。


「あそこに戻ったら、俺はそれで終いだ。どういう形の締め括りになるかは分からねぇが……何にせよ、俺にはこれからなんてねぇ」

「…………シラ、ベ……?」


開ききった眼には、確かに目の前にいるシラベが映っている。手を少し伸ばせば触れられる距離に、未だ彼はいる。
なのに、どうして今、彼がこんなにも遠く感ぜられてしまうのか。掴もうとしても、手が彼の体を通り抜けてしまいそうに思えるのか。

今にも暗がりに呑まれ、消えてしまいそうなシラベの横顔に、リヴェルは訳も分からず、静かに狼狽する。

ややあって、そんな彼女の様子に気付いたシラベは、自嘲の笑みを浮かべながら、重い腰を上げた。


「…………なんつってな」


意味のない誤魔化しに、軽薄な言葉を残すと、シラベはリヴェルの頭をぐしゃりと撫でた。

心配するなと言うように、いつも通りの力強さで髪を乱すと、シラベは缶に残った酒を飲み干して、ベランダを出て行った。


「さ、もう寝ろよ。明日は朝一で出て、《アガルタ》まで行くぜ」


リヴェルを苛む絶望の闇を晴らしてくれた手も、声も、彼女の心を温めてはくれなかった。

彼の言葉に穿たれ、血のような悲しみを流していくリヴェルの胸には、かつて救いとなったものさえも痛みを増長させるだけで。
無性に泣きたくなる想いを噛み殺しながら、リヴェルは部屋に戻って、布団を頭から被って眠りに就いた。

目が覚めた時、どうか何もかもが夢でありますように――と。そんな不毛なことを祈りながら迎えた最後の朝。


「起きて、リヴェルちゃん!! リヴェルちゃん!!」


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