カナリヤ・カラス | ナノ


――駄目だ。

こんな所にいたら、駄目だ。


「いたか?!」

「向こうにはいませんでした!」

「全く逃げ足の速い……探せ! 万が一壁を越えられると厄介だ!」


逃げるんだ。誰の眼も、誰の手も届かない場所まで。俺はまだ――まだ、死にたくないんだ。



ジュージューと食欲を唆る調理音と、肉類の焼ける香ばしい匂い。その発生源を辿ると、台所に少女が立っていた。ウェーブした長い髪を一つに括り上げ、白いフリルエプロンを身に着けた少女は、卵を落としたフライパンに少量の水を入れ、蓋を落とすと、居間の壁に掛けられた振り子時計を一瞥し、ふぅと息を吐いた。

シンクの上に用意された皿には、パリッと焼けたウィンナーと、瑞々しいレタスとプチトマトが寝そべっている。年期を感じさせるオーブントースターの中では食パンが狐色を纏い出し、後は目玉焼きが出来れば完成だ。少女はフライパンの火加減を確認すると、心底面倒臭そうな顔をしながら台所から出た。

ぺったん、ぱったんとスリッパが短い廊下を進む。この距離を行き来する事さえ億劫になるのは、これが殆ど毎朝のルーティンだからに他ならない。毎日同じ時間に朝食を作っているのだから、いい加減自分で起きてくれないものか。そんな苛立ちを込めて、バンッと勢い良く襖を開くと、少女――雛鳴子は部屋の主に向けて声を上げた。


「鴉さーん! 朝ご飯出来ましたよーー!」


遮るものを失った為か、部屋の中に溜まった煙草の匂いが、もあ、と鼻を衝き、後から酒臭さまでやってきた。この如何にも不衛生だと思わせる匂いに反し、部屋の中は然程散らかってはいない。雑多感こそあるが、顔を顰める程汚くも無い。山盛りになった灰皿と、床に転がる酒の空き缶、惜し気もなく積まれた卑猥な雑誌は気になるが、眼を瞑ってやれる範疇だ。


「かーらーすーさーーん」


それらを避けながら、雛鳴子は部屋の奥――うぞうぞと布団蠢くベッドへと直進した。
長いこと使われているのか、やや煤けたような黒いシーツの布団が丸くなる。それを容赦なく引っぺがすと、雛鳴子は何起こしてくれてんだと言わんばかりに低く唸る男――鴉の額をピシャリと叩いた。


「起きないなら朝ご飯全部食べちゃいますよ。あとで文句言っても知りませんからね」

「……っせぇなァ。ババ臭ぇ起こし方しやがって………」


寝起きの彼は、眉間の皺と半開きの眼の所為で、ただでさえ悪人面そのものと言える顔立ちに更に磨きが掛かって見える。が、上半身にシャツを羽織り、下はパンツ一枚という格好の為か、どうにも迫力に欠けている。というか、間抜けだ。


「そっちこそ、変な格好で寝るのやめてください。なんで完全に脱ぐか完全に着込むかじゃなくてシャツにパンツ一丁なんですか」

「素っ裸で寝ろってか」

「いや、前者はパンツだけじゃねーのかってことですよ。ほら、そんな事どうでもいいから起きてください」


雛鳴子が腕を引っ張ると、鴉は渋々ながら上体を起こし、寝ぐせのついた頭をがしがしと掻いた。重たげな目蓋と長い長い欠伸が如何にも寝足りないと訴えているが、それでも起きる意思はあるらしい。毎朝の事ながら、世話の掛かる。自分が来る前はどうしていたのかと呆れながら、雛鳴子は目玉焼きが完熟になる前にと踵を返す。


「おはようございます、お間抜けさん。前閉めて下穿いたら、さっさと顔洗って来てくださいね」

「へいへい……毎朝ご苦労さん、雛鳴子かーちゃん」

「誰が母ちゃんですか」


余計な一言を添えないと気が済まないのかと、苛立った雛鳴子がピシャリと引き戸を閉めると、鴉はシャツを着替え、ズボンを穿いて、重たい足取りで部屋を出た。

眠気がしがみついて来るのは其処までで、顔を洗えば意識も顔付きもはっきりする。寝ている間に生えた不精ヒゲも剃り落し、心身共にさっぱりした所で、鴉は雛鳴子と朝食が待つ居間へと向かった。


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