カナリヤ・カラス | ナノ
思い返すまでもなく、私は、貴方のことなど何も知らない。
(いくらで売られたんだ?お前の体)
あの時、偶然曲がり角でぶつかって出会って。貴方の気まぐれで買われて、拾われて、遊び半分の契約に漕ぎ着けて。
それから三年一緒にいるだけの私は、貴方のことを何も知らないし、知れない。
(もっとかっこよく言ってやろうか?世界征服だ)
貴方の馬鹿げた野望を知ったのもつい最近のこと。
たかが三年、されど三年。毎日毎日、いっそ嫌になるくらい傍にいるというのに。
どうして貴方にいつまでも近付けないままでいるのだろう。
どうして、貴方をこんなにも遠くに感じているのだろう。
(だな。じゃあ、先行こうぜ)
私は、貴方のことなど何も知らない。貴方も、私に何も知らせようとしない。
少し前まで、それでよかった筈なのに。
(答えが見え切ってる賭けなんて、ないだろうがよ)
纏わりつく影を引き連れて、先へ先へと行ってしまう貴方を、私は――。
「おい、起きろ」
「――ッ、きゃああああああ!!」
見開かれた目に映った光景を、脳が把握するまでに数秒。それから布団ごと蹴り上げられた鴉が床に倒れるまでは、ほんの一瞬であった。
ズデンと鴉が尻餅をつくが、その音も耳に入らない程、雛鳴子は混乱に陥り、顔を真っ赤に、眼を白黒にさせていた。
「な、ななな、なんで、か、かか、から」
「落ち着け。そして冷静になって、まず俺を蹴り飛ばしたことについて謝罪を述べろ」
「………すみません」
「よろしい」
が、オーバーヒートを起こしたことで、血の巡りが良くなったのか。
寝惚けていた頭は意外にもすぐにしゅんと覚醒し、状況を把握した雛鳴子はベッドの上に正座して、ぺこりと頭を下げた。
その頃には、雛鳴子はもう、現状の全てを把握しきっており。
頭をぼりぼりと掻きながら、のっそり立ち上がってきた鴉が、どうして此処――雛鳴子の部屋として割り当てられたクルーザーの一室にいるのかの検討もついていた。
「ったく、珍しく起きてこねぇと思って起こしにきてやった心優しき鴉さんに、なんつー仕打ちしてくれてんだてめぇは」
「……昨日は色々あって寝つけなかったもので」
ややあって返したその言葉は、限りなく嘘に近かった。
正確には、昨晩雛鳴子は、色々考えることがあって寝つけなかった。ただ、それを鴉に告げることが憚られるので、雛鳴子は嘘を吐いた。
考え事があって眠れなかったなどと言って、何を考えていたなどと尋ねられた時、耐えられる気がしなかった。
夜遅くまで膝を抱え、夢にまで見てしまった程、貴方について考えていたなどと、言える訳がなかった。
全て正直に告げてしまえたらいっそ楽なのだろうが、それが出来たら、自分はこんなことにはなっていなかっただろう。
またも踏み出せない歯痒さを鴉に悟られないよう、雛鳴子は顔を逸らし――同時に、彼が何故此処にいるのかを思い出して、はっとした。
「あの……朝ご飯、」
そう。鴉が自分を起こしに来たということは、つまり、そういうことだ。
いつもより就寝時間が遅くなり、結果、普段自分が起こすまで殆ど起きることのない鴉が先に目覚める程度に盛大に寝坊したとなれば、必然いつも自分が用意している朝食は、ない。
これを抗議すべく、鴉は自分を起こしに来たのだろうと、先程察しがついていたというのに。
雛鳴子は、まだ自分は寝ぼけているのかと眉を下げたが、鴉が彼女の心情の機微に触れることはなかった。
「もう用意してあんよ。積んでおいたレトルトと缶詰のフルコースメニューだ」
「……すみません」
「いいから、とっとと顔洗って髪整えてこい。お前寝癖ひっでぇぞ」
そう言って、あちこちに跳ねて膨張した雛鳴子の髪をわしゃわしゃと乱雑に撫で回している鴉は、眠りに落ちる前に望んでいた、いつもの彼そのものであった。
寝起き姿を弄られることなど、ほぼ初めてと言えるのに。
愉しそうに自分で遊んでくる鴉の顔や口振りが、自分のよく知る彼と一致して、雛鳴子は不覚にも自分の調子が戻っていくのを感じてしまっていた。
「わ……分かりましたから、外出てください!……先に、着替えますので……」
「手伝ってやろうか?」
「締め出す前に出ろ」
「カカカ、釣れねぇ女だな」
そう言って、へらへらと退室したいった鴉の背中を暫し睨み付けた後。雛鳴子は床に落ちたままの布団を拾い上げ、ベッドの上に直して、一つ溜め息を吐いた。
憎々しいと思わなかったことなどない彼の軽口が、何故落ち着きに繋がってしまうのか。
認めたくないその事実に唇を尖らせるも、雛鳴子は何より、いつも通りに戻った彼に迫ることなく、日常に戻ろうとしている自分に、呆れた。
夢にまで見る程悩んでいたくせに、結局踏み出せないまま、鴉が標準的であることに甘んじようとしているなんて。
「……何してんだかなぁ、私」
今日の昼前にはゴミ町に帰還し、金成屋の通常営業に戻るのだ。
迷いは今の内に置いて行けと、雛鳴子は寝間着を脱ぎ、ベッドの上に放り投げた。