カナリヤ・カラス | ナノ
これがもし、絵本の中の物語であったなら。眠れる少女の眼を覚ますのは、小鳥の囀りか、眩しい太陽の光。
或いは、運命の赤い糸で結ばれた王子の口付けであっただろう。
しかし悲しきかな。物語の姫君程に麗しい少女の目覚めを引き起こすのは、ゴミ山に群れる黒い鳥の騒ぎ声、古びたカーテンから僅かに射し込む薄暗い朝日。
それと、向いの部屋で眠る、王子様という存在から百八十度離れた男から課せられた、毎朝の義務であった。
「…………ふぁあ……」
上体を起こしながら短く欠伸をして、少女は半開きの眼を軽く擦る。
未だ重たい目蓋の内から、この不浄の町から見える空よりも青い瞳が徐々にその姿を現していくと、やがて少女は掛け布団から出て、うんと体を伸ばした。
少女は、目覚まし時計を使わない。その理由は、今もぐっすりと眠りこけている、向い部屋の男にある。
男は、眠りを妨げられることを嫌う。そして果てしなく寝起きが悪い。
朝はぎりぎりまで眠れなければ機嫌が悪く、ただでさえ厄介かつ面倒な性格が、更に一層悪質なものとなる。
薄い壁と廊下を挟んだだけの距離で、目覚まし時計が、男の”目覚めなければならない時間”よりも早い時刻に鳴り響けば、彼がどうなるか。
それによって自分がどのような被害を蒙るか。想像に容易いことである。
よって、少女は目覚まし時計が鳴る瞬間にアラームを止めて、男の耳に極力音が入らないようにしていたのだが。
いつしかこの時間の起床が習慣となってから、彼女は目覚まし時計を使わなくなった。
リスクを負わず、毎日きっかりと同じ時間に目が覚めるのなら問題はないと、少女はアラームをセットすることなく、目覚まし時計をただの時計にしているのであった。
「……うーん……今日もまた酷い…………」
洗面所で顔を洗った後、寝ている間にもっさりと広がった髪を梳かし、結い上げる。
それから部屋に戻って、布団を畳んで押し入れに戻し、箪笥の中からいつも通りの服を選んで身に付ける。
きっちりアイロンをかけた白いシャツ、色気のないズボンとベストに、安売りの靴下。
唯一、彩と華として、襟元に赤いリボンをつけて、着替えを終えると、もう一度部屋を出て、今度は台所へ向かう。
タイマーをセットしておいた炊飯器から、米の炊ける匂いが漂う。その香りに鼻孔を擽られつつ、少女はまるで趣味じゃない、白いフリルエプロンを着けた。
清楚過ぎていっそ悪趣味なそれは、男からの支給品であり、朝の業務を行うに辺り少女が身に付けなければならない、一種の制服であった。
朝食を作り、食事を終え、軽く後片付けが終わるまでの時間。少女は髪をポニーテールにすることと、このエプロンを着用しなければならない。
何故そんなことになっているのかというと、全て単に、あの男の趣味であった。
彼がその気になれば、少女が今着ている女っ気のない服でさえも、想像もしたくないような、悍ましい程恥ずかしい格好にさせられても、おかしくない。
「それはお前が晴れて奴隷になった時の為にとっておこう」という男の冷え切った温情により回避されているが、それでも、あくまで雇用人であり主である男の意向に、少女は最低限従わなければならない。
過ぎた抵抗は、男の嗜虐を誘う。そして、気まぐれで掛けられていた情けを蔑ろにされ、手の平を返される。
そうなれば、目も当てられないような服装を強いられて、外もろくに出歩けなくなる。
妥協すべきところで諦めなければ、身を滅ぼす。
少女が毎朝律儀に趣味ではないエプロンを着けて、男が最も好む髪型にしているのも、自警の為だった。
「……目玉焼きでいいかなぁ」
冷蔵庫の中身を見つつ、ここ数日の朝食のメニューを頭に浮かべる。
同じ物が続くと、男が小言を吐いてくる。あまり気にするような内容ではないが、回避するに越したことはない。
少女は、そういえば目玉焼きは一昨日の朝に出していたんだった、と思い出し、卵はそのまま出すことにした。
男は卵かけご飯をそれなりに好いていたから、まぁいいだろうと、少女は野菜室から玉葱とトマトを取り出した。
トマトは切って、軽く塩を振るだけ。玉葱は薄めにスライスし、豆腐と一緒に味噌汁の具にする。
あともう一品と、少女は昨日の夕飯の余り物、こんにゃくや椎茸の煮物を温めた。残り物に福があるかはさておき、楽はあるのだ。
レンジで温めた煮物と、切ったトマトの皿を居間のテーブルに並べ、少女は時計に目をやった。
時刻は八時手前。そろそろ彼を起こすべき時間だ。
少女は、さぁここからが憂鬱だと溜め息を吐いて、居間を出た。
「かーらすさーーん。あーさですよーー」
「ん゛ー…………」
不健全な匂いが充満した男の部屋に踏み込み、ベッドの上で丸くなっている男を揺り起こす。
手の込んだ朝食を作るよりずっと手がかかり、疲弊する業務に、少女は眉を顰めた。
「もう朝ご飯出来てますから、ホラ。起ーきーてーくーだーさーいー」
「分かってる……分かってっから、色気のねぇ揺らし方すんなって……」
「色気のある揺らし方ってなんですか」
「ん、実践すっか?」
「その食い付きの速さからして、目は覚めたみたいですね。よかったよかった」
「チッ。今日も今日とてツマンネー女だなお前はよ」
大きく口を開け、長々とだらしのない欠伸をしながら、男――鴉が目を覚ます。
寝起きでぼんやりとしていても尚、獰猛で、今にも此方を喰ってかかりそうな眼の赤が、此方を見る。
毎朝のことながら、と思いながら、少女は肩を落とし、また溜め息を吐いた。
それを愉しそうに見ながら、鴉はにたりと口角を上げた。
「おはよう、今日も釣れねぇ雛鳴子チャン」
「おはようございます、今日も朝っぱらから色ボケた鴉さん」
此方の顎をつぅ、と撫でてくる手を払い、少女――雛鳴子はさっと踵を返した。
ただでさえ疲れる朝の一仕事が片付いたばかりだというのに、鴉の戯言に付き合って、無駄な体力を消耗する訳にはいかない。
何せまだ、一日の始まりなのだ。これからやること、やるべきことの方が多いというのに、消耗しては仕方がない。
くつくつ笑う鴉に「早く顔洗ってきてくださいね」とだけ吐き捨てると、雛鳴子はさっさと台所に戻って、朝食の準備に戻った。
「いただきます」
「まーす」
今日も適当な挨拶をしてから、鴉は朝食に手をつけた。
真っ先に卵を割って炊き立ての米に掛けているのを見るに、卵かけご飯でいいかという選択は良かったらしい。
雛鳴子はぽりぽりと、煮物のごぼうを食べながら、小さく安堵した。
「そういや、卵かけ専用の醤油なんつーもんがあるらしいぜ。この間テレビでやってた」
「へぇー。毎日食べるくらい好きな人とかは、そういうの使うんですかね」
「一回は使ってみてぇ気もするけどよ、実際「ふぅん、こんなもんか」で終わりそうなんだよな、そーいうモンってよ」
「あぁー……なんか想像出来ますけど、夢がないですね……」
「カカカ。けど、うめぇにはちげぇねぇだろうぜ。劇的、革新的ではないにしてもよ」
他愛のない話を適当に終えると、鴉がニュースを見ながら、椀の中身を掻っ込む。
それを見つつ、雛鳴子は味噌汁を軽く冷ましながら啜った。
どのくらいの時間に作れば、鴉を起こした後でも味噌汁が適度に温かい状態になるかは、随分前に把握している。温め直す手間やガス代が省けるのはいいことだ。
雛鳴子は我乍らいい出来だと今日の味噌汁を評価しつつ、流れてくるニュースに耳を澄ました。
「今日は一日晴れみたいですね」
「晴れてようが曇ってようがあんま変わんねぇけどなァ、此処じゃ」