カナリヤ・カラス | ナノ
幌切れのようなマフラーを靡かせながら、男は少女の前に躍り出た。
そして、いつの間にと思う間もなく、男は少女の痩せた頬を掴んで、品定めでもするかのような眼で彼女の顔を眺めた。
その行動に、少女も、追手達も目を見開く中。カンカンと、何処かで金属がぶつかり合う音だけが遠く谺する路地に、男は低く擦れた声を響かせた。
「いくらで売られたんだ? お前の体」
唐突な問い掛けに、少女はきょとん、として何も言えずにいた。
追手達も同様に、暫し呆けて傍観していたが。そんな事をしている場合ではないと我に帰って、追手は少女から引き剥がさんと、男の肩を掴んだ。が、一瞬此方を見た赤い目に威迫され、追手は即座にその手を離し、息を呑み込んだ。
ただそれだけで、まるで羽を広げたカラスのように、この狭い路地を我が物とした男は、依然底知れぬ笑みを浮かべたまま、片手に持っていたアタッシュケースを地面に置いた。
ごとりと重い音がしたと思えば、男は少女の頬から手を離し、アタッシュケースの中身を追手達に見せびらかすように開いてみせた。
「「――!!?」」
その光景に、誰もが目を疑った。
アタッシュケースの中には、札束がびっしりと詰められていた。総額云百、いや、云千万は下らないだろう。眩いばかりの札の束。
普通に生きていれば、手にするどころか目にする事もないだろう大金。そんな物を片手に、ゴミ町を歩いていたこの男は、一体何者なのだろうか。
そんな疑問も吹き飛ばすかのように、男は更に、とんでもない一言を放った。
「此処に五千万あんだけどよ、こいつが売られた額だけ持って行ってもらえねぇか? ヤクザさんよぉ」
「「…………なぁ?!!」」
追手達が、揃って声を上げて驚くのも無理はなかった。少女に至っては、頭が事態の処理を行えず、余り身動き一つ取れぬままに静観している始末だ。
見知らぬ、偶々ぶつかっただけの少女の為に、男は大枚を叩くと言ってのけた。
それまで何の興味も持っていなかったにも関わらず、だ。
少女は、男の行動も意図も、まるで意味が分からないとエンストする頭を抱えた。そんな何一つ読めない男にペースを奪われていたが、追手達もヤクザ者。おいそれと少女を、素性も分からない金と交換する訳にはいかなかった。
「兄ちゃんよ……余計なことに関わってちゃ、この町じゃ生きていけねーぞ」
追手の一人がポケットから取り出したナイフを、男の首筋に宛がった。だが、男はそれを気にした様子もなく、淡々とアタッシュケースの中の金を眺めている。
「なんだ、足りないのか?」
「そうだな。こいつがこれから生み出すかもしれねぇ利益とは釣り合わねぇな」
「じゃあ、足りるには足りるのか」
「足りたからっておいそれと売れる訳ねぇって言ってんだよ。分かるか?」
少女はもう、何も言えなかった。
自分がもしかしたら助かるかも知れないという期待と、自分が助かる為に見知らぬ他人が犠牲になろうとしている事態への不安。それ以上に、ヤクザ者に囲まれても尚、一切臆す様子も引く様子も見せない男に、少女は言い知れない恐怖を感じていた。
「で、お前いくらのカタに売られたんだよ」
急に話を振られ、少女は思わず口から奇妙な声を出した。
それまで傍観しているだけで精一杯だった少女だが、逃れられるはずもなく彼女は当事者だった。被害者であろうが関係なく、この場に於ける問題を担っているのは彼女である。
追手達に何か制止されているような視線を感じながらも、少女はぼそりと、砂埃の張り付いた喉から声を出した。
「……五百万、です」
「なんだ、思ってたより安いじゃねーか」
男はアタッシュケースに手を突っ込み、五百万だけ取り出すと、それを自分の喉にナイフを当てる男に差し出した。
「出所はロクでもねー金だが、正真正銘モノホンの金だ。これでこいつの借金はチャラ。売られる理由も無くなったんだしよ、見逃してやってくれや」
「……てめぇ」
「五百万以上の利益を生もうが、こいつの身の対価は五百万、だ。分かったら、とっとと壁ん中帰れ」
男はそれだけ言うと、ナイフをすいとどけて、五百万をヤクザの手に握らせた。
そして、すっかり立ち尽くしている追手達から、少女を引っ張り取っていくと、男はそのまま路地の向こうへと消えようとした――そこで、一人が背後から襲いかかった。
「死ねぇ!!!」
背中は隙だらけ。おまけに、片手は少女、片手はアタッシュケースで塞がれている。
そんな相手に、引き下がる理由があるかと、追手の一人はナイフを振り翳した。
得体の知れぬゴミ町の人間に、大事な商品を手渡して、はい終わりでは済ませられない。
五百万――いや。男が持つ五千万も、少女も、持って帰って然るべきだと、無防備な背中にナイフを突き立てようとした刹那。
「商談成立、ってことでいいよなァ」
黒いコートが弧を描くようにして翻ったのも束の間。追手の体は宙を舞い、間もなく、地面に落ちていった。
何が起きたのか、当人は理解することも出来ぬまま地を転がり、弾かれたナイフが遅れて落ちてくる頃には、彼は気を失っていた。
その光景を、悪い夢でも見ているような目で眺める一同の中。追手のリーダー格たる大男は、男の問い掛けに弱々しく頷いて、答えた。
彼は、察してしまっていたのだ。瞬きする間もなく、追手の一人をアタッシュケースで撲り、吹き飛ばしてみせた彼の実力が、自分達の手には負えないレベルのものである事を。
こうなった以上、男は何をしてでもあの少女を持ち帰るだろうという事を。
ならば、最早抵抗はするまいと引き下がれば、男は妙に上機嫌な様子でニタリと笑って、今度こそ路地の先へと行ってしまった。
「……兄ぃ、いいんですか?」
「放っておけ……。ありゃぁ、俺ら都モンが関わっていいような奴じゃねえ。あいつは……この町が生んだ化け物だ」
此処は、ゴミ町。壁に隔てられた先で独自のヒエラルキーを築く、無法者達の地。
そんな場所で生きる者に牙を剥かれるその前に、己の立場は弁えるべきだと、追手達は倒れた同胞を背負って、撤退を選んだ。
「あのガキ……俺らに捕まってた方がマシだったかもな」
遠く、カラスの羽ばたく音が聴こえた。
その不吉な音に追い立てられながら、追手達はお情けで与えられた五百万を手に、壁の中へと戻って行った。