カナリヤ・カラス | ナノ




瑠璃千代が戻るまでは此処にいるように、と通されたのは、彼がここ数日の間に用意したという雛鳴子の為の部屋だった。

かつての家よりも広いその部屋は、夢見がちな少女が目にすれば、御姫様の部屋のようと瞳を輝かせただろう。
だが、雛鳴子にはこれが、体の良い独房にしか見えなかった。

天蓋つきのベッドも、豪奢なティーテーブルセットも、一着だけで雛鳴子の一ヶ月の食費が賄えそうな衣服犇くクローゼットも。全てがただ、忌まわしくも悍ましかった。
力無く腰掛けたソファも、普段ならばその座り心地の良さに感動しただろうが、今はまるでそんな気になれない。


部屋の外には瑠璃千代がつけた見張りがいるせいか、部屋は広い筈なのに異常な窮屈さを感じる。
まるでこの部屋自身が、自分の体を圧縮してくるようで、とにかく居心地が悪い。

雛鳴子は押し潰されてしまいそうな体をぎゅっと丸め、膝を抱えて考えた。

自分は、どうしたらいいのだろうか、と。


腹を括れど、相手には通じない。全て叩き伏せられて、それで終わる。それは、覚悟していた筈だった。

だが、どうなってもいいと思えたのは、自分の言葉が通ったならばの話だ。
何一つ発言を許されないままに、相手に完膚なきまでに踏み躙られるのは、堪え難い。


それに、何より堪えたのが瑠璃千代がゴミ町を焼き払おうとしていることだ。

これさえなければ、例え殺すと言われても、雛鳴子は何かしら反論出来ただろう。だが、それをさせない抑止力が、彼の握る権限だ。


幾ら瑠璃千代とて、雛鳴子がこの結婚にまるで乗り気ではないのは分かっているだろう。
だからこそ、彼は脅しをかけた。求婚を断るのならば、その時はゴミ町共々燃やすぞ、と。

では、自分が心から結婚を承諾したのなら、ゴミ町は見逃してくれるのではないか。そんな気を、彼は雛鳴子に植え付けた。それこそが、瑠璃千代の脅しの真の意味だ。


合図一つで全てを終わらせることが出来る位置にいる瑠璃千代ならば、頼み込めばゴミ町を救ってくれるかもしれない。
自分の心と未来を代償にすれば、あの町は、住人達は救われるかもしれない。

そんな保障の欠片もない希望に、雛鳴子は縋るべきか悩んでいた。


このまま此処で膝を抱えていても、ゴミ町は灰と化し、自分も瑠璃千代との結婚を回避することは出来ない。

それならば、瑠璃千代の前に平伏し、どうかあの町だけはと助けを乞う方が得策とも言える。
しかし、そんなことをすれば、自分は今度こそ瑠璃千代に完全敗北する。

あらゆる感情を殺し、彼に従い、彼に尽くし、死ぬまで瑠璃千代に捕らわれて。そんなことになってでも、ゴミ町を救うべきなのか――。


「…………………」


考えて考えて、雛鳴子はふっと気が付いてしまった。自分と天秤に掛ける程、あの町には価値があるのか、と。


逃げ出してきて、また背を向けた、不要物と汚濁の町。たった三年、されど三年を過ごしてきた場所。

いつかは去ることを決めていたあの町に、どうして瑠璃千代にすら交渉材料として引き合いに出される程度に情を抱いてしまっているのか。


確かに、何一つ思い入れがないと言えば嘘になる。狂っている住人達に愛着がないということもないし、恩義を感じる人間もいる。


(いらねぇよ、お前なんか)


だが、あそこには鴉もいる。自分の未来を散々に弄んでくれた彼の為に、全てを懸けて、それでいいのか。

割れそうに痛む頭を、ぺしゃんこになりそうな心臓を抱えて、雛鳴子は声にならない声で呻いた。


こうして考えたところで、結局何も出来はしない。何も持たない、たった一人の少女でしかない雛鳴子に出来ることなど、本当にたかが知れている。
ならばいっそ、全て誰かに委ねて、流されてしまっていた方が楽なのではないか。

鴉が言った通り、瑠璃千代が与えてくれるものを享受して、遊蕩に浸り生きていれば。それでいいのではないかと思う。
何もせずとも寝食に困らず、寵愛も受ける。彼女が望んでいた筈のものは、全て揃えられ、保証されるのだ。

だというのに。それを拒み続けてしまっているのは、どうしてなのか。


「………バカ…………なにが……あいつの檻の内ですか………」


渦巻く思考の海に溺れながら、雛鳴子は歯噛みした。


考えるまでもなかった。最初から、答えは見えていたのだ。それを認めたくなかっただけで、分かっていた。

頑なに瑠璃千代との婚約を拒むのも、それを促されて激怒したのも、突き放されても尚、心に留めてしまっているのも全て――


「……私を捕まえてるのは……逃がしてくれてないのは………やっぱり、貴方じゃないですか……」


雛鳴子が、鴉に確かな好意を抱いているからだった。


信じてしまったのも、割り切ったつもりでいながら裏切られたと傷付いたのも。

あの日から、彼女が鴉に心から捕えられていたからで。捕えた籠ごと手渡されても、取り残されてしまうだけだ。だから、こんなにも戸惑うし、胸が苦しくもなる。

それをようやく認めた雛鳴子は、手を固く握ると、顔を上げた。


もう、目を逸らしてはいられない。俯いて蹲っていても、本当にどうにもならないのだ。また希望が潰されようとも、抗える内に行動しなければ、それこそ絶望だ。

雛鳴子は眼に浮かんだ涙を手の甲で拭い、しゃんと立ちあがった。


ようやっと、やるべきことが決まった。何度無駄に終わろうとも、可能な限り立ち向かうことも、改めて覚悟出来た。

まだ自分は、鴉の籠の中にいる。その忌むべき事実が、不思議と雛鳴子の背を押していた。


(いらねぇよ、お前なんか)

「…………関係、あるかぁあああ!!」


弱音を振り払うように、雛鳴子は隠し持っていた手榴弾を一つ、ピンを抜いて盛大に振りかぶって、扉の方へ投げた。

ドッガアアアン!と爆音と共に、札束で造られたと言っても過言ではない価値を持つ家具や壁が吹き飛んだ。


すっかり慣れた物が焼けた匂いと、人のざわめきが、困惑していた雛鳴子の頭をすぅと落ち着かせた。

雛鳴子は大きく息を吸うと、崩れた扉から廊下へと飛び出した。案の定、見張りは吹き飛び、音を聞き付けた他の見回りが次々と此方に向かっているが、それが何だというのか。


「すみませんが、邪魔をする方には片っ端からどいてもらいますよ………私は、行かなきゃならないんです」


怖れるものは、此処にはない。臆する理由も、今はない。雛鳴子が戦うのは、それらを打ち砕く為だ。

どれだけの追手が来ようとも、鴉が確かに自分を捕えている実感がある内は、雛鳴子は何も怖くはなかった。


「捕えろ!!あの娘が何かしでかした時は、そうしろとのご命令だ!!」

「多少痛め付けても構わん!とにかく止めろ!!」


大人数に囲まれても、銃口を向けられても、純貴族が相手でも。それ以上に恐ろしいものを雛鳴子は知っている。

暴君で、傍若無人で、悪辣で、外道で、欲深い。金成屋・鴉よりも恐れるものは、此処にはない。


そんなものに一人立ち向かう為に、自分は純貴族に喧嘩を吹っかけていると思うと、妙な笑いが込み上げてくる。

だが、例え味方がいなくとも、雛鳴子は戦いたかった。


自分を捨てようとしてくれた鴉と、そう選択させた瑠璃千代と、それに流されかけている自身の運命と。


(分かってんだろ、雛鳴子。てめぇはもう、あいつの檻の内だ。逃げたところで…あの野郎からしたら、鳥籠でピィピィ飛び回ってるようなもんだ。
その気になりゃ、いつでも掴み取られる。そういう状況だ)


そう、自分は今まで、肝心なところで逃げてきていた。

父親の暴力にも、母親の無関心にも、闇金の手からも、瑠璃千代の執着からも、鴉への気持ちすらも。全て背中を向けて、逃げていた。


それしか術がなかったと言えば、確かにそうだが。それでも、戦おうと思えば、そう出来た筈だったのだ。そして、そうしなかったからこそ、雛鳴子は絶望の前に突き出されてきた。

だから、こうして真っ向から何かに立ち向かうことで、雛鳴子は過去からすらも解放されたような気になった。


籠の中でも、大きく飛び回って。その羽ばたきを妨げるものに対し抗い。まさにそんな状態で、吹っ切れた雛鳴子は鴉のもとを目指した。

自分は確かに捕らわれの身である。だが、未だ自分には翼があり、飛ぶ意思もある。

ただ黙って飼い慣らされる気など、真っ平ない。戸が開けていようとも、自分が望むまでは出て行ってなどやらないと。
そう彼に吐き捨ててやる為に、雛鳴子は隠し通せた僅かな装備を活用し、瑠璃千代の手の者達を掻い潜り、外を目指した。


しかし、現実はやはりそう簡単にはいかず。たった一人の雛鳴子は、思うように進むことも侭ならず、徒に時間と体力を削られていた。

相手は大の大人で、しかもその道のプロが数十人。対する此方は、ゴミ町の苛烈な環境で生き延びてきたとはいえ、ただの十五歳の少女だ。
消耗品もすぐに消えていき、じり貧極める攻防の中。いち早くゴミ町に戻らねばという焦りもあって、中々思うように進めない。

それでも、それでも自分は行かなければ――。


「そこまでだ、クソガキ!!」

「――っ!」


想いだけを糧にがむしゃらに暴れ回る雛鳴子だが、ついに彼女は完全に囲まれてしまった。

辺りには、スーツ姿の屈強な男達が総出で、此方に銃口を構えている。
何処か一ヶ所でも崩すことが出来ればまだ突破は可能に思えるが、それを許してくれそうな雰囲気でもなく。


「ゴミの分際で手間かけさせやがって……少し、仕置きが必要だな。あぁ?!」

「………………」


にじり寄る男達を前に、雛鳴子はそれでも退くことはしなかった。

ただひたすらに、何処から突っ込んで切り崩そうか。そればかりを考えて、彼等の飛ばす悪罵には一切耳を傾けはしなかった。
煩わしいこの障害をどう乗り越えていくべきか。もう残り僅かしかない装備で、どうやってゴミ町まで走り抜けていこうか。

そんなことを必死で考えている間にも、男達は今にも殴りかかってきそうな雰囲気で迫ってくる。


雇い主である瑠璃千代の所有物となる雛鳴子を、彼等は殺しはしないだろう。だが、それでも主が「多少痛めつけても構わない」と言ったのなら、彼等はその限界まで雛鳴子を嬲るだろう。

隠せるような場所を重点的にいたぶり、彼女の心を叩き折り、それで鬱憤を晴らすのだという手が、ぬっと彼女に伸びた。


だが、その手は雛鳴子を掴むこともなく。すとん、と力を落とした。

いや。正確には、手が、落ちたのだ。


「…………な、」


ぼどっという鈍い音が響いたと思えば、次の瞬間には首から鮮血が噴き出ていた。

その光景に唖然とし、やがて誰かが悲鳴を上げたが。それもすぐに飛んできた蹴りによって消えた。


まさに刹那のことだった。目の前で黒いロングスカートがひらめいたかと思えば、瞬きする間もなく人が蹴散らされ。あれ程堅牢に見えた囲いが、あっさりと崩れた。

一体何が、と思うのも束の間。見開いた眼に映ったのは、給仕服をまとったメイドで。


「お、前……使用人が、何を!!」

「……誠に申し訳ございませんが。私の主は貴方がたとは別の御方でございます」


さんっと血に濡れた仕込みナイフを振り払い、メイドは恭しく頭を下げた。

その声と、物言いと、動作に、雛鳴子は見覚えがあった。身に纏っている衣服は、彼女が知るそれとは色以外まるで一致しないが――


「私、派遣の者につき」

「く………黒丸さん?!!」


目の前にいるのは、確かに黒丸であった。

いつものスーツ姿ではなく、白いエプロンのついたメイド服を身に纏っているが。こんな場所にいる筈のない彼だが。
こんな格好をしていても違和感のないその中性的な顔立ちも、黒に近い赤の瞳も、見紛うことはなかった。


「……お迎えに上がりました、雛鳴子様」


黒丸はそう言って、襲い掛かる男達をまた華麗に薙ぎ払うと、彼女を軽々と俵担ぎした。

そして、片腕で雛鳴子を支えた状態で、彼は大きく跳び上がり、崩れた陣形を抜けて、凄まじい速さで屋敷を駆け抜けて行った。


「ま……待て!!」

「何をしている!撃て!!撃てぇえええ!!」


銃声すらも置き去りに、黒丸は走行の邪魔にしかならないだろうスカートの抵抗も受けずに、一直線に駆けていく。

それに暫し、雛鳴子は言葉を失っていたが、やがて現状を呑み込み終えると、彼女は精一杯声を上げた。


「く…黒丸さん!あの……なんで此処に?!それに、その格好!」

「……元より、青嵐山邸には会長の命を受け潜入捜査をしておりました。
青嵐山が、オオドリ製薬の手引きをし…ゴミ町をドーピングドラッグの実験場にしようとし、更に新型兵器の導入実験を始めるつもりだという調査を」

「――…っ!」


急速に冷えたような気がする空気と黒丸の言葉を呑みこむと、心臓がきゅっと引き締まるような感覚に見舞われた。

瑠璃千代の計画は、もう既にゴミ町に知れていて、しかも、自分が聞いた内容よりも深く、黒丸達は知っているらしい。


桃源狂の件は、あの騒動で言ってしまえば失敗になっただろう。その上で、何を使おうとしているのかと思えば、新型兵器なんて隠し玉を有していたとは。
伊達に金と権力に愛されてはいない、という皮肉も、今は笑えない。

雛鳴子は顔を強張らせ、ぎちと歯噛みして。そして、あることに疑問を抱いた。

だが、それは黒丸にすぐ見抜かれ、聞くよりも先に彼の口から答えは提示された。雛鳴子にとって、信じ難い真実が。


「そこに先程、鴉様からご連絡が入りました。『うちの下っ端が其処にいて、もし逃げ出そうとしていたら、こっちまで寄越してくれ』……と」

「……なっ」


きゅっと革靴の底が磨き抜かれた床に擦れたかと思えば、ぐんと黒丸の体が角を曲がった。

その方向転換に声を潰されながらも、雛鳴子は信じられないと目を見開いた。


彼女の顔が肩越しになるように担いでしまっているので、黒丸には雛鳴子の表情は分からない。
それでも、彼は雛鳴子の心情を逐一汲み取っているかのように、彼女が求める答えを尋ねられるよりも先に並べていく。

それが、今の自分の仕事だというように。彼は聞いたままに、命じられたままに言葉を紡ぐ。


「鴉様は、『ゴミ町相手にするような馬鹿に股開くどうしようもねぇ奴なら捨てていいが、そうじゃねぇなら不憫だから拾い直してやる』と仰っておりました。
私に連絡し、依頼をした時点で…鴉様にはどちらにせよ料金を支払う義務が生じるというのに、です」


遠くから、「いたぞ!」と追手の声が、空気が劈かれていく音の彼方で聞こえる。

しかし、それは雛鳴子の頭にはまるで入らず。彼女の脳も、鼓膜も、神経も。全ては黒丸の声と、そこに含まれた鴉の言葉にせしめられている。塗り潰されている。


「それでも、私を雇うことを渋ることなく、鴉様は私に、貴方様を逃がすようにと言いました。雛鳴子様が逃げ出す確証もないのに、です。
……私には、その理由が分かりません。ですが、雛鳴子様には、分かるのではないでしょうか」


ぎゅっとメイド服の肩を握り、雛鳴子は顔を俯かせた。それについて言及することもなく、黒丸は青嵐山の屋敷を駆け抜けていく。

聞くまでもなく、彼女が此処を出るのだと暴れた時から、全て見えているのだ。


「……分かんないですよ。馬鹿の、考えることなんて」


彼女が必死に嗚咽を堪えてこんな強がりを言うのも、肩をぽろぽろと零れてくる水滴が濡らすのも、服を握っていた手が離れて彼女の目元を拭っていくのも。

黒丸にも、そして恐らく、あの男にも――。


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