カナリヤ・カラス | ナノ
深い深い暗がりの底へと叩き付けられる寸前。急浮上していく意識に引っ張り上げられ、夜咫は両の眼を見開いた。
其処にあるのは、見慣れた天井と、あの日のようにただ宙を掴むばかりの腕。
それを暫し見詰めながら、荒々しい呼吸と鼓動の音を聞いて、夜咫がようやく自分が夢から覚めたことを認識したところで、頬にそっと華奢な手の平が宛がわれた。
――これは、誰の手か。
顔を向ければ其処には、悲痛に微笑む目白の姿があった。
「…………おはよう、夜咫」
「…………めじ、ろ」
確めるように名前を呼ぶと、目白は何処か申し訳なさそうな手付きで、汗で髪が張り付いた額を撫でてきた。
そうされて初めて、夜咫は酷く汗をかいていることに気が付き、同時に、悪夢の余韻に胃を搾られるような感覚を覚え、眉を顰めた。
「……夜咫、すごく魘されてたわ。……何か、悪い夢でも見た?」
「…………いや。大丈夫、だ」
「……そう」
あの日の夢を見たのは、もう何度目か。
昔は思い返す度に嘔吐したり、狂ったように暴れたりしたものだが、昨今は慣れてきたのか、気分が悪くなるだけで済んでいる。
そんな自分に幾らか自己嫌悪しながら夜咫が上体を起こすと、目白は寝具から腰を上げた。
「……時間は?」
「作戦開始まで、まだ余裕はあるわ。……でも、夜咫にしては遅いなと思って、様子を」
「……そうか」
こんな情けない様を、よりによって今日見られてしまうとは。夜咫は、手渡されたタオルで顔を拭いながら、深く息を吐いた。
七年間、ずっとこの日が来ることを夢見て来た。
鳩子の仇を討ち、革命を成し遂げ、彼女が願った亰の未来を掴み取る日。それだけを見据えて、今日まで牙を研いできた。
それなのに、今になって昔の記憶に苛まれるなど、乾いた笑いさえ出て来ない。
自分は未だに、あれを恐れているのか。今になって死と直面することに怯えているのか。
この七年の間で自分の闘争心は錆付いてしまったのではないかと夜咫が項垂れていると、握り締めた拳に、目白が両手を添えてきた。
まるで、夜に臆する子供を宥めるような微かな力が、虚しさに震える拳を包み込む。
その、途方も無く懐かしい感覚に夜咫が眼を瞠る中。目白は懸命に、夜咫に掛けるべき言葉を探し――ややあって、僅かに震える唇を開いた。
「……あのね、夜咫」
目白は、知っている。夜咫が今日までリーダー代理を名乗り続けてきた意味も。代理の名と共に背負い続けてきたものの重さも。色褪せない過去の美しさも、凄惨さも。幼い頃からずっと彼を見つめてきた目白は、知っている。
だからこそ目白は、此処で夜咫を止めてやるべきとも思った。もう何もかも投げ出して、悲しみも憤りも過去のものにしてしまえばいいと、彼の手を引いて、何処か遠くに行ってしまいたいと思った。
けれど、目白は夜咫が戦い続けてきた理由も、知っている。
雁金巌士郎に殺された母――鳩子に対する想いも。彼女の理想と誇りを受け継ぎ、忌まわしき亰の王として君臨することを選んだ彼の苦悩と覚悟も。
全て分かっているからこそ、目白は無理に笑みを作り上げ、夜咫に微笑みかけた。
「私……肉団子のスープ作ろうと思うの。リーダーが……鳩子さんが私達によく作ってくれた、あのスープ」
不安にもなるだろう。恐怖に竦むのだって仕方ない。
誰よりも何よりも強かった夜咫が、心を砕かれる程の痛みを負ったのだから。堪えられなくなるのだって無理はない。
だけど、それでも貴方が背を向けることを選べないのなら。貴方自身が立ち止まることを許せないのなら。この手を握り締めておくのは、これを最後にしておこう。
懸命に前を向いて、戦いに臨む貴方を支える為に、この両手を使えるように。決死の覚悟で突き進む貴方を、何処かへ連れ去ったりしないように――。
そう祈りと誓いを込め、夜咫の拳に額を当て、目白は未来を語る。希望に溢れた、目前の未来を。
「鍋いっぱいに作るから……全部終わったら、皆で食べよう。肉団子がたくさん入ったスープ……私達と、あいつらと……皆で」
そっと壊れ物を扱うように手放した拳は、もう震えてはいなかった。
きっとこれで、彼の手はいつものように武器を握れるだろう。そうすれば、何も恐れることはない。
”鉄亰のヤタガラス”が、もう二度と負けることなどありはしないのだからと、目白は踵を返し、部屋を出ようとした――その時。
「や……夜、咫?」
夜咫に腕を引かれたと思った次の瞬間。後ろから抱え込むようにして、肩に顔を埋められた目白は、狼狽した。
背中越しに、夜咫の息遣いが感じられる。その、子供の寝息のように穏やかな呼吸に対し、預けられた夜咫の体はずっしりと重くて。
その感覚が無性に気恥ずかしく、目白が取り乱す中。夜咫は静かに目を閉じ、息をした。
「ど、どど、どうしたの、夜咫?も、もしかして、体の調子が……」
「いや…………でも、少しだけ、こうさせてくれ」
在りし日の、愛おしい記憶。その中でも一際強く色づく思い出。
母に背負われ、共に笑い合い、家路についた時のことを回顧しながら、夜咫は呼吸を整えた。
酸素を取り込み、癒えない傷を負った心臓を動かす。
彼女に生かされたこの体、この命に、本当の意味を得られるよう。指先にまで血液を張り巡らせ、ゆっくりと体を作り上げていくように息をしながら、夜咫は目白の背に身を預けた。
「そうしたら、大丈夫だ……だから、あと……少しだけ」
今にも爆ぜそうな心臓が、二度寝を求めるような声に少し宥められる。
目白は、額を軽く擦り付けてくる夜咫に返事をする代わりに、ことんと首を傾げ、彼に頭を寄せて答えた。
貴方がそれを望んでくれるなら、と。
「あれで全然何にも気付いてないんだから、夜咫は悪いオトコだよ」
「?? よく分かんねーけど、夜咫の兄ぃは何も悪いことしてないど、目黒」
「そーいうんじゃないの。ホラ、行くよ長元坊」
そんな姉の姿を何時までも覗き見していては雷が降ってくると、ドアの隙間に張り付く長元坊を引っ張って、目黒は歩き出した。
夜咫を起こしに向かった目白の戻りが遅いので、何かあったのではないかと後を追ったが、杞憂に終わったようで何よりだ。
それに――今日の戦いで何があろうと、あれが最後なら、まだ救いもあろうだろう。
目白にとって彼は、王というより王子様なのだ。幼い頃、彼に助けられてからずっと。夜咫はまるで知らないし、気付いてもいないが、目白にとって夜咫は、その身と心を捧げるのに相応しい、唯一無二の人なのだ。
だから、最後になるかもしれない日に、彼にああして頼られたことは、目白にとって至上の喜びになったことだろう。例えこの戦いで、彼の為に命を落としたとしても後悔しない程。
それを理解していないからこそ質が悪いのだと眼を眇めながら、目黒は息を吐いた。
「夜咫ならすぐ、いつもの夜咫に戻る。だから、僕らも準備しよう、長元坊」
いつも通りの朝は、恐ろしく穏やかにやって来た。
明日もきっと同じように陽は昇ることだろう。此処に誰一人戻ることが無くても。亰そのものが崩壊することになろうとも。淀みなく動き続ける機械のように、太陽と月は交差していくだろう。
そう、この世界は嫌になるくらい無情に回り続けている。誰かの悲しみや怒りを顧みる事も無く、淡々と時を刻み、明日を紡ぎ、未来を作り出していく。
そんな無慈悲な世界の流れに振り解かれぬよう。大切なものを奪い取られてしまわぬよう。せめて、抗い続けていよう。
無駄な足掻きと言われようと、みっともないと嘲笑われようと。きっと全てに意味はあるのだからと。目黒は凛と研ぎ澄ました眼を光らせながら、遠くを見据えた。
「これから僕らは、戦争をしかけに行くんだから」