病手線ゲーム | ナノ
あの日、山手線に乗ろうとしていた筈の俺は、微塵たりとも動かない心で、日常に揺られていた。
そして、あの時――線路にふらふらと向かっていた自殺志願者に気を取られた一瞬で
俺の日常は、山手線と共に消えた。
「……なんて、言った」
あの日は、とてもよく晴れた日だった。
ようやく寒さも引いて、心地よい温かさが続いて、梅が咲き出して……そんな季節に、彼女は俺に、花が綻ぶような笑顔でこう告げた。
「お医者さんがね、あと3ヶ月もつかどうか、だって」
にっこりと、陽射しの中に溶け込みそうな彼女が、そのまま本当に消えてしまうのではないかと。
そう思った瞬間、自然と涙が零れてしまって。
揺らぐ視界の先では、彼女が困ったように眉を下げて。けれど依然、笑ったまま、俺のことを見ていた。
「…ごめんね、きょーくん。私……きょーくんと、もう一緒に学校行けない。大学も…諦めなきゃいけない」
「そん、な…………そんなこと言うなよ!!」
彼女は、山田千咲(やまだちさき)は、いつだってそうだった。
子供の時から周りの誰よりも背が低く、体が弱く、いじめられっこ属性でありながら、決して人から目を逸らさない。
色素の薄い、透き通るような茶色く大きな瞳で、じっと、真っ直ぐに見て。
そんな彼女と目を合わせるのが恥ずかしくって、俺はいつも顔を逸らしてきたけれど。
「……俺…なんの為に、必死に受験勉強したと思ってんだよ……」
「……ごめんね」
「お前が馬鹿みてーに頭のいい学校行くっつーから…俺……入学してからだって、ずっと勉強してたんだぞ」
「……ごめんね」
「それだってのに…お前、入学してすぐに倒れ込んで……良くなったと思ったらまた入院して……」
「……ごめんね」
「……付き合ってるってのに、デートなんか殆ど行けてないし…」
「……ごめ」
「その上、あと3ヶ月で死ぬとか言うしよ……おまけに、何で謝ってくるんだよ………」
「…………うん。ごめんね」
俺は初めて会った時から、彼女が好きだった。
色白で、細っこくて、危なっかしくて、弱々しくて。そのくせ底抜けに明るくて、わりとちゃっかりしていて。
おまけに頭だけは良くって、それで、誰よりもきれいな顔をしていて。
幼稚園でいじめられていたとこを助けていなかったら、多分俺には一生手が届かない、高嶺の花のような存在だったのだろう。
いつも俺について回って、きょーくんと呼び慕ってきて。
俺はそれを恥ずかしいからと突っぱねならがも、嬉しくて、手放したくなくて。
だから、ずっと彼女の傍にいれるようにと、千咲が県内有数の進学校に行くのだと聞いた時も、必死に勉強した。
入学してからも、彼女に見合う男であれるようにと、テストの成績は可能な限り点を稼ぐ努力をした。
けれど、それも全部、もうおしまいだった。
「きょーくん。本当に、ごめんね。
私……最期まできょーくんのこと振り回してばっかりで……きょーくんに、何にもしてあげれてないし……これからも、何も出来ない」
努力が無駄になったとは思わなかった。虚しいとも思わなかった。
ただ、もう俺には、何かに励む意味も、理由も、何もなくなってしまう。ただ、それだけが――千咲を失うことが悲しかった。
「小さい頃からずっと……きょーくんは、体が弱かった私の為に色んなことしてくれてたのに……私……」
いじめられていた時以来、何があっても泣かなかった千咲は、この時、10数年ぶりに泣いていた。
あの大きな眼から涙をぼろぼろと零して、とてもきれいに、泣いていた。
「きょーくんに何もしてあげれないまま、死にたくないよぉ……まだ生きて………きょーくんと一緒にいたいよ……」
「千咲、」
堪え切れず握り締めた手は、初めて取った日よりも大きくなった筈なのに、恐ろしく頼りなく小さく、細く、そして、冷たかった。
これが、死にゆく人間の体温なのだろうかと思ったら、いよいよ無性に悲しくなってきて。
俺も形振り構わず涙を流して、嗚咽を零した。
彼女が上体を起こして寝そべるベッドに顔を落として、縋るように、とにかく泣いた。
そんな俺の頭を空いた片手で撫でながら、彼女は、子供に言い聞かせるような口調で、ぽつりと呟いた。
「きょーくん……一個だけ……最後に1個だけ……私のワガママを聞いて………」
濡れたシーツから鼻を離して顔を上げると、彼女は、もう笑顔を取り戻していた。
けれどそれは、見るに堪えないくらい痛ましい笑みで。見ているこっちが張り裂けそうで。
そんな風に笑ってまで、俺に何を伝えたいのかと、水びたしの視界で見詰めれば。彼女は、また一層笑みを深くして、言った。
「きょーくんは……大学に行って、お仕事して……素敵な人と結婚して…子供に囲まれて……長く長く、幸せに生きて……。
私の分も、たくさんの時間を、精一杯生きて……それが……私の、最後のワガママ…」
「……やめろよ………やめろよ、千咲ぃ!!」
強がって笑っているくせに、言葉に偽りがないのが、より辛かった。
どうせなら、嘘でも、もっと馬鹿らしい望みを言ってくれればよかったのに。
「そんなもん……言われなくてもやってやるから!だから……もっとマシなワガママ言えよ!!
どっか行きたいとか、何か食いたいとか、あれが欲しいとか……最後って言うなら…自分の為に使えよ……」
「……きょーくん」
でも、あいつは頭がいいから。
そんな虚言よりも、自分の本心を告げることが俺の為になるんだって、きっと分かっていたのだろう。
「ありがとう……きょーくん………ほんとうに、ありがとう………」
最後まで、素直になれないのは俺一人で。
桜の花が満開になる頃。余命よりも早く命を落とした千咲の心臓が止まるその時まで。
俺は、あいつに真っ直ぐな視線を返してやることは、出来なかった。