読みきり | ナノ
「……なんだ、まだ拗ねているのかマルコシアス」
軍に襲われた村から幾らか離れた森の奥。木に凭れて、鞄から出した干し肉とパンで食事をしていた女が、隣に立てかけた剣に声を掛けた。
木漏れ日に当てられ、刀身を光らせる剣は、やはり剣であった。対象を切り裂く刃があり、柄があり。それだけの、剣。
強いて他と違うところを挙げるとするならば、その刀身に刻まれた赤い紋様だろうか。
遠目からでは、拭いそびれた血が付着しているようにも見える、奇怪な紋様。それはこの剣が、ただの剣とは違うことを決定付けるものであった。
その紋様は、刀身の根本から切っ先にまで走り、まるで生き物のように蠢く。
赤黒く、僅かに光りながら、虫が這うように渦を巻きながら。
「……ふん。頭も口も悪い俺には、お前が何を言っているのか分からんな」
「そうか。なら放っておくことにしよう」
「お前はまたそうやって!!少しは謝ろうという気を見せたらどうだ?!え?!!」
剣は喋る度にきぃんと、あの金属音を立て、ごく僅かに振動していた。
横でもくもくとパンを噛む女を責め立てる剣。それ以外に喋る者はいない。誰かがあの剣に声を充てていることもなく、一人と一振りは会話していた。
奇妙な光景だった。
女が一人で喋っているようにも見えるが、確かに二人分の声がして、剣が人間のように反応しながら発声している。
物を言う獣の話こそ聞いたことはあるが、剣が喋るなどとは聞いたこともない。
この国に住まう人間ならば、大概はそう言うだろう。
「……すまないとは思っているさ。だが、あの状況はお前にも非がある。そう、君も思うだろう?」
「……やっぱり、バレてたか」
かくいうネリも、その一人であった。
「この森を入る前から君がつけていたことは分かっていた。……この剣が、そんなに物珍しかったかい?」
女に敵意らしい気が見えなかったので、ネリは隠れていた茂みから出て、彼女の前に躍り出た。
相変わらず干し肉を乗せたパンを食い続けている女と、その隣の剣を見て、ネリは観念したかのように彼女の前に腰かけることにした。
「いや、確かにそいつぁ珍しいが、兵士百人皆殺しにしちまうような奴相手から盗もうたぁ思わないさ。……ただ、恩人を礼もなしに行かせちまうのは癪だと思っただけ」
口元についたパンクズを取る様すら絵になる女を見て、ネリは、こんな身で兵士を鏖す力が一体どこにあるんだか…と思いながら、肩にかけた鞄を開けた。
「生憎、こんなもんしか残ってなくってね。まぁ…奴らに襲われる前だったとしても、大したもんなかったことにゃ違いないんだが。受け取ってくれよ」
ネリが取りだしたのは、白い布に包まれたチーズだった。
あんな惨劇の中に残っていたとは思えない、見事な大振りのチーズ。それを、ネリは女に差し出した。
「……こんな物をくすねて、叱られるぞ」
「……よく分かったじゃないか」
「お前のような貧相な顔をしたガキが持っているような物じゃないことは明白だ」
ゴン!と鈍い音がして、頭上の鳥たちが飛んだ。
殴られた衝撃で倒れた剣が何か呻いている横で、涼しい顔をしながら女は山羊の胃袋製だろう水筒を出して、水を飲む。
「家が殆ど壊れている中、そんな無事な状態で残っていたということは地下室辺りで貯蔵されていたもの……。更に、それだけ立派なものとなれば、村で管理されている出荷物だと思ってね。
言い方は悪いが、こいつの言う通り。君のような少女の一念で持ち出せるものではないと踏んだ訳だ」
「……はー、やっぱアンタ凄いわ」
ネリは鞄から出したナイフで、チーズの端を切ると、滑らかな断面から漂う濃厚な香りごと食らうように一口放り込んで、開き直ったように笑った。
「御名答。アタシはあのチンケな村の芋農家に住み込みで働いてる奉公娘さ。村一番の収入である水牛の乳から作ったチーズ様なんか食ったこともねえ」
「……混乱に乗じて強かだな、君は」
女は、ネリが切ったチーズを一つ手に取り、口に入れた。
舌触りのいい、コク深いチーズの味が口に広がる。味気ないパンと固い干し肉に彩りを与えるような、程よい塩気がまたくせになりそうで。
「うまいだろ?」と、得意げに笑うネリに釣られ、女もまた小さく「あぁ」と答えた。
「礼の品をもらったからには、自己紹介をしておかなければな」
ネリが女に差し出されたパンを食べ終わり、食後の余韻に浸っていたところで、女が座り直しながら改まった。
胡坐座りであるにも関わらず、品を感じさせられるのは、やはり女が人並み外れて美しいからだろうか。
木漏れ日に肌の白を溶かしながら、女は薄紅色の唇を開いた。
「私はライゼルダ。それと、剣の名を言うのもおかしな話かもしれないが……」
「俺はただの剣ではない!相手が小汚い小娘だろうと名乗れライザ!」
「……という訳で、こいつはマルコシアス。長いのでマルコ、と私は呼んでいる」
再び殴られ静かになった剣を横目に、ネリは「あ、あぁ……」と返答した。
女・ライゼルダに、剣・マルコシアス。
もっと仰々しい名前かと思いきや、存外この土地に於いて馴染のある名前であった。
「アタシはネリ。改めて、腰抜け共を代表して礼を言わせてもらおうよ、ライゼルダ様」
「ライザでいい。様をつけられる程大それた人間でもないのでな……畏まる必要はない」
あれだけ強く、そしてこれほど美しくありながら、ライゼルダは気取らず、実にさっぱりとした人物で。当初抱いていた取っ付き難さも消え、ネリは嫌味たらしさのないライゼルダにすっかり魅せられていた。
恐ろしさを越え、偏見を越え、そうして見た彼女の素顔は、また色が変わったかのように美しいものであった。
しかし――。
「まぁ、尤も……もう会うこともないだろうから、構わないがね」
何のことか、とキョトンとするネリを余所に、ライゼルダは荷物を適当に放り込んで鞄を引っ掴むと、マルコシアスを背中に納めて立ち上がった。
その一連の動きだけでも人を魅せれるものであるが、呆けている場合ではない、と数拍置いてネリは気が付いた。
「ちょ、ちょいと待ってくれよ!もう会うことはないって……」
「私なんかについてこようとは思わず、村に帰れ……と言う意味だ。ネリ」
慌てて立ち上がったネリを制止するように、ライゼルダが赤い視線を落とし、刻み込まれた一本の瘡に阻まれた眼の片割れだけが此方を見下ろした。
それ一つで十分だと言わんばかりの気が、そこには満ちていた。
閉じ込められた緋色の奥に漲る、ライゼルダの覇気とでも言うべきか。あの兵士達に向けていたものと同じ、生物をそこに鎮座させることが出来るような眼。
その眼に臆し、中途半端な姿勢で固まったネリの頬に汗が一筋伝う中。ライゼルダは淡々と彼女に告げた。
「村の物であるチーズを盗んできた……ということは、それが露見したとしても咎められることがないという後押しだあるんだろう。だが、奉公娘である君がそんなことをすれば、そうもいかない。……ということは、戻る気がないんだろう?あの村に」
まるで、喉笛に切っ先が当てられているようだった。
射抜かれるような視線一つでも、人間は死を感ずることが出来るのだ、と見えない何かが語りかけてくる。
喋っているのは、ライゼルダ一人だというのに。
「確かに、あんな状態から立て直すのは相当苦労がいるだろう。だが、そんな状態でもまだマシと思え。居場所があって、生活が保障されていれば十分だ。私なんかについて行ったところで、君が望むものは得られないし、何もない。
……つまるところ、自ら泥沼に足を突っ込むな、と私は言っているんだ。聡い君なら、分かるだろう?」
「……沈む前に帰れ、ってか?」
「その通り」
ライゼルダは、そう言ってネリに背を向けた。
ただ視線が外れただけというのに、まるで刺がついた拘束具から解放されたかのようで、ネリは深く息をする。
「これまで君がしてきたように、土を耕し、畑に水をやって暮らす。それがどれだけ恵まれた生活か味わいたくないだろう?
……それでも村を出たい気持ちがあるのなら、せめて私についてくるのは止めることだ」
「……ついていった、その時は?」
「何もしないさ。よくも悪くも……な」
ネリを引き剥がし、ライゼルダは森の中を歩いた。
手元の地図を見る限り、この森を抜ければ小さな町があるようだ。宿があるかは分からないが、その時は手持ちの金で交渉してみよう。
そんな算段を立てながら、ライゼルダは歩いた。
その後ろを、こっそりとネリがつけているのを知っていながら。
「いいのかライザ。あの小娘、懲りずに引っ付いてきているぞ」
「何もしないと言ったんだ。放っておくさ」
「ハン。奴め、お前についていけばその力を得られるとでも勘違いしているのだろうな。
力を得る代償すら知らない、愚か者の思考が手に取るように伝わるぞ。
まるで、いつぞやのお前のようだ。それを、果たして見捨ておけるかな?ライゼルダよ」
カタタ、と僅かに震えるマルコシアスは嗤っているようだった。
その何もかも見透かしたような口ぶりが、ライゼルダの眉をぴくり、と動かす。
それをまた愉快そうにしながら、マルコシアスは続けた。
「あぁして力を得ようとついて回ってきた子供がこれまで何人いたことか……覚えてはいないが、数えるのも億劫になりだす頃だ。
そのどれもが、似たような末路を辿ったと言えば、あの小娘は引き下がるか……いや、そんなことはないな。それを”お前”が理解している。だから、気付いていないフリをしている……そうだろう?」
「…………」
「まぁ、俺にはそんなことどうでもいいがな。大事なことは、お前が俺との契約を守ること。それだけだ」
「……マルコ」
ネリには聞こえない声量で話していたマルコシアスと、同じ位の大きさの声が、ライゼルダの口から零れた。
それは、マルコシアスが望んでいたような声のようで――そうではないようで。
「どうもこの道は草が多くて歩きにくい。草避けになってもらうが、まぁお前にとって大事なことではないらしいからな……遠慮はしない。頑張ってくれ」
「お、おい!ライゼルダ?!」
ライゼルダはマルコシアスを殴る時と同じ表情で、背中から彼を引き抜いて、膝程まで伸びた草をざっと払い除けた。
まるで子供が拾った木の枝を振り回すように、マルコシアスを左右に揺らして、ライゼルダは歩きやすい道を作る。
「や、やめろォ!く、草の先がくすぐった……うわああぁあバッタが!今バッタがついたぞ!!ライザ!悪かった!!カンに障ったのなら謝る!!だからやめてくれえ!!」
「……何してんだ、あいつら」
その様子を離れた木の影からネリが、顔を渋らせながら見ていた。
何か話していたと思えば、急に剣の方が奇声を上げてはそれも致し方ないことだった。
それにしても、あの一人と一振りの関係は奇妙なものであった。
ネリのような、この時代に於いて平凡な暮らしをしてきた少女では、まず手にすることも目にすることもないだろう喋る剣。
いや、あの村であろうと、攻め込んできた騎士達であろうと、あんな剣に縁などないだろう。
都では、どこかの国から輸入された魔法というものが広がり、それまで有り得ないとされていた現象も、少なからず容認はされてきている。
その証拠に、ネリがいた村でも魔法を学ぼうとしていた若者もいた。
胡散臭い書物を商人から買い取っていた時は、村の誰もが鼻で笑ったものだが、彼が本から炎を出した時は大騒ぎになったものだ。
そんな時代でも、やはり喋る剣というのはあまりに異質だ。そして、それを手にしている女の強さも然り。
ということは――単純な思考ではあるが、彼女の強さはあの剣が関わっていると見てほぼ間違いないだろう。
先程ネリは「兵士百人皆殺しにしちまうような奴相手から盗もうたぁ思わない」とは言ったが、あの剣を手にしてみたいという気持ちがないとは言っていない。
仮に上手く彼女から剣を奪えたとして、あの力を我が物に出来るとは思えないが、ライゼルダの後をつけていれば、活路が見えるかもしれない。
あの圧倒的な力の根源を見出し、淘汰されるだけの未来を塗り替える力を得る道――その先に待ち受けるだろう未来に、ネリは突き動かされていた。
芋農家の奉公を続けているようでは見られない景色を、力を得た人間だけが受ける喝采を。そんな渇望が、彼女の脚を動かしていた。
羨望と、憧憬と、野心。それを煮詰めて”夢”というのなら、ネリが掴まんとしているそれは、どれだけ残酷なものだろう。
この時の彼女は、それを知る由もなかった。