モノツキ | ナノ


暫く避けてきた道も、これまで立ち寄ったこともなかった場所も、馴染みの場所と言える程度に、足を運ぶようになった。

だのに、彼女が隣にいるだけで何処もかしこも特別な場所に感ぜられてしまうのは、髑髏路が特別であるからに他ならない。

賑わう駅前も、相も変らず湿気た匂いのする雑居ビルも、彼女がいるだけで等しく華やいで、息苦しささえ覚えてしまう。彼女がはにかんだような気がした時や、途轍もない愛おしさを感じた時は、特に。


「それはもう、好きなんじゃないかなぁ」

「やっぱそうなるのかぁあ」


どうにもならないこの焦燥感を発散させようと、突発的に集めた面々と酒を酌み交わしながら、シグナルはテーブルの上に突っ伏した。


いつか、自分がツキカゲに再入社することになった際に来たウライチの居酒屋は、ここ最近、表から来る人間の客が多くなってきた。

政界進出を果たしたアマガハラ・ヒナミがモノツキの人権保障条令を打ち立ててから、裏と表の境目は緩やかに消えていき、裏社会の掃き溜めであったウライチも今や、一般人が当たり前に出入り出来る地下市街となった。

これはヒナミが「いい機会だ。看過されてきた社会の汚濁も、今ここで綺麗さっぱりさせてしまおう」と、裏町の一斉クリーン化を実施したのが大きいが、ウライチに住まう者達が、表と裏の線引きを取り除く努力をしてきたのも、この街が変わった一因だろう。


未だ、人とモノツキには蟠りがある。忘れがたい禍根がある。それでも、生まれ変わったこの世界で、新しい生き方をしてみようと、多くの者が歩み寄る努力を始め――この街も、変わった。

仕入れられる物の幅が広がったからか、随分品数が増えたメニューを一瞥し、シグナルは力無い声で追加のビールを注文した。

今日は何と言うか、飲まないとやっていられない気分なのだろう。テーブルの角に額を押し当てながら、うだうだと懊悩しているシグナルを横目に、すすぎあらいがはんぺんフライを摘まんでいると、あちこちから冷やかしの声が飛んできた。シグナルが手当り次第に呼び集めた面々である。


「何を悩むことがあるんだい?色恋で懊悩するなんて君らしくもない」

「思考回路が下半身と直結されてるシグナルにしては、本当にらしくないよね」

「うるせぇなぁぁ。何事にも例外はあるっつーことだよ」


誰でもいいから話を聞いてもらいたいと、片っ端から声を掛けて、集まったのが凡そ真面目に人の悩みに耳を傾けない面子なのは、当のシグナルがその部類だからだろう。
類は友を呼ぶとはよく言ったものであると、すすぎあらいは、唸る犬のように噛み付くシグナルと、ニタニタと――と言っても、総員モノツキなので顔は分からないが――彼を見遣る面々を眺め、ふぅと溜め息を吐く。


「で、どうすんの?」

「何が」

「告白。髑髏路に」

「んな簡単に決心が出来たらこんなとこで話してねぇよ馬ぁ鹿」

「いや、お前が馬鹿」

「確かにシグくんの方が馬……おっと、アオキくんと言うべきだったかな」

「どっちでもいいわ馬鹿」


酒が回ってきたせいか、ただでさえ少ない語彙力が一層弱まっている。あともう二、三杯ジョッキを空にしたら、いよいよ馬鹿としか言えなくなるだろう。
その前に、今日の議題を片付けるべきだろうと、すすぎあらいが肩を竦めると、ヒューヒューと口笛を飛ばす一同の中から、鉢かづきが身を乗り出した。

この手の話題を三度の飯ほど好む彼女のことだ。シグナルが髑髏路にお熱と聞いて黙っていられようかと、マイクを突き出すインタビュアーさながらに、シグナルに食い掛る。


「で、もう二年になりそうなんだっけ。しゃれちゃんが気になって仕方なくなったの」

「ウケるでしょ」

「すすぎてめぇ、マジでぶっ殺すぞ」

「ってことは、二年も何もしてないの?本当にシグナルらしくないね」

「二秒で手出してもおかしくないのにな。人間に戻った時、頭の中身も変わったのか?」

「お前ら俺のこと何だと思ってんだよ」


カンカラや梔子が、揃ってこう口にするのも無理はない。シグナルは男と女のあれそれに対し、非常に軽薄な質であり、惚れた腫れたより先に手が出ているタイプであった。
端的に言えば、ムラっときたらヤる。そういう、世の女性が口を揃えて「最低」と非難するであろう系統の男。そんなシグナルが、二年もの間、淡い恋心を抱くだけに踏み止まっているというのは、どういうことかと一同が首を傾げる中、運ばれてきた追加のビールをそのままに、シグナルは行き場の無い焦燥感を晴らすように、頭を掻く。


「なんつーか……あれなんだよ。髑髏路はこう……取って食うみたいにしたくねーっつーか、しちゃいけねーっつーか……。これまでアイツに色々世話になってきたし、長いこと同僚としてやってきたし……こう、踏み出し難いっつーか何つーか…………」

「分かる?二年もこの言い訳を聞かされてきた俺の気持ち」

「てめぇ、マジでいい加減にしろよすすぎぃいいいいい!!」


シグナルにとっては至極真剣な悩みだが、すすぎあらいからすれば、だから何だとしか言い様がなかった。
これまで散々、軽率に女に手を出してきたくせに、何を今更、純情ぶっているというのか。髑髏路を大切にしたい、という気持ちがあるのは確かなことだろうが、それを盾に、いつまでも逃げ隠れされては苛立つというものだと、すすぎあらいは辟易とした声を吐き出した。


「……シグナルはさぁ、ビビりなんだよ。ホラーだオカルトに関わらず」

「あぁ?」

「髑髏路のことが好きなのに、二年もこうしてぐだぐだやってるのは、怖いからなんでしょ?自分の好意を髑髏路に拒絶されたり、今の関係が壊れたりするのがさ」

「う…………」


すすぎあらいの言うことは、恐ろしく的を得ていた。

彼の言う通り、シグナルは恐れているのだ。自分の想いを髑髏路に拒まれることや、今の関係が変わってしまうことを。
それは、シグナルが真剣だからこそ生まれる感情で、臆するのも仕方ないとは思う。だが、流石に二年は長過ぎる。話を聞かされるこっちの方が堪えられないと、すすぎあらいは珍しく酒に手を伸ばした。

昔は一滴たりとてアルコール類に手を出さなかった彼だが、最近はちびちびと嗜む程度に飲酒するようになってきた。
曰く、そろそろ彼女が酒を飲める歳になるから――とのことだが、成る程。これまでまるで酒を口にしなかった割に、上手い飲み方をするのはそういうことか。

適度に物を胃に入れながらチューハイを飲み進めるすすぎあらいをシグナルが睥睨していると、外野から砂糖を吐き出すような悲鳴が上がった。


「うへぇー、マジ中のマジのやつじゃんそれ」

「甘酸っぱいねぇー、シグくん」

「しかし、シグナルが髑髏路のこと好きになるってのは意外だね。シグナルはこう……ばいーんって感じの子が好きじゃん?」

「髑髏路って脱いだら意外にすげぇの?」

「梔子、次その手の発言したら縦に裂くから覚悟しろよ」


シグナルの好みというのは、実に分かり易い。端的に言えば、茶々子のようなタイプである。主に胸部が。

彼女がツキカゲに来たばかりの頃、ティーポッドのモノツキであることを失念する程度に彼女の胸元ばかりを見ていたシグナルが、一晩だけでも狙えないかと実に軽率に茶々子を口説こうとした結果、その余りに品のない口説き文句に業を煮やした茶々子が、ホラー映画の爆音上映を始め、両者の間から男女の仲という概念が消えたことは、今でも語り草になっている。

そして、それで懲りる、ということもなく、シグナルは豊かな胸を持つ女性を見れば、下心を丸出しにして声を掛け、時に美味しい思いをしたり、時に傷を負ったりしてきたのだが――彼の傾向からするに、髑髏路はシグナルのタイプとは言い難い系統だ。

茶々子と比べてはあれだが、何処かの元清掃アルバイトと比較すればある方だと言える胸だとか、色気も女っ気もない服だとか。ああいうタイプの女性にシグナルが入れ込むというのは、実に意外であると一同は首を傾げるが、それは当のシグナルも同じだった。


「俺も髑髏路のこと女として意識したことなかったんだけどよぉ……なんかこう、ある時期から髑髏路がとんでもなく可愛く見えてきてなぁ…………」


好みか好みでないかで言えば、限りなく後者に近い。だからシグナルは、髑髏路を長らく妹分として扱い、彼女と関係を持つことなど、考えたことすらなかったのだ。
だのに今では、あれだけ心躍らされてきた豊かな胸にも食指が動かない程度に、髑髏路に夢中になっている。

自分より一回り小さな体も、鼓膜が蕩けるような可愛らしい声も、何かとミニマムな動作も、ジャージの袖から覗く指先までが愛おしくて仕方ない。どうして今まで、こんなに愛くるしいものが傍にいることに気が付けなかったのかと悔やむ程に。


「マジなんでこれまで一切意識しなかったのか分かんねぇくらい、髑髏路がすっげー可愛いんだよ!!なんだアイツ!!いつもプロレスマスク被ってんのに何であんな可愛いんだ?!」

「プロレスマスク被せたのお前だろ」

「それなんだよなぁ…………。俺よぉ、髑髏路の顔が怖ぇってマスク被せたり、顔見て絶叫したりしてきただろ……。なのに、今になって好きだの可愛いだの……虫がいいんじゃねぇかって」

「ん〜〜……なんとも言い難いなぁ」


先程から、シグナルのテンションの上下が激しい。まるでジェットコースターである。ついでに、彼の上体もテーブルから上がったり下がったりだ。いや、ジェットコースターは進むものだが、シグナルは一進一退を繰り返して動けずにいるので、フリーフォールと言った方が適切か。

髑髏路を意識し始めてから、ずっとこの調子で踏み止まっている彼を、一体どうしたら前に押し出せるのかとすすぎあらいが考えあぐねていた時。


「ところで、一個疑問なんだけど」

「何だよ」

「髑髏路ってシグナルのこと好きじゃん?なんでそんな悩んでんの?」


梔子が当たり前のように吐き出したその言葉が、突き刺すような静寂を注ぎ込んだ。


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