モノツキ | ナノ


「俺の怒りも、恨みも、憎しみも、嘆きも……過ちなどではなかった。過ちであっていい筈がないと、俺は思っている。俺のしてきたことを否定するということは、俺の全てを……この命も、思想も、存在すらも、自ら否定することになるからだ」


かつて此処で、ヨリコに真っ向から叩きのめされた日から、インキはずっと考えていた。


異形の呪いを受けた。ただそれだけの理由で、あらゆる人から蔑まれ、虐げられ、痛め付けられた。
ただ其処にいるだけで悪なのだ。ただ存在するだけで罪なのだと。名も知らぬ人に石を投げられ、唾を吐かれ、嬲られ、世界の裏側へと追い立てられた。

彼等は人間であるというだけで、自分はモノツキであるというだけで、どうしてこんな理不尽が成り立つというのか。
ならば、逆もまた然りではないのかと、インキは世界の理を引っくり返さんと、狂気の旗を振り翳した。

それは、誰にも認められず、誰にも受け入れられることがなかった彼が、彼であり続ける唯一の術であり、精一杯の抗いだった。


本当に世界を変えることが出来なくても、彼はそれで、良かったのだ。

一つでも多く、少しでも深く、自分を否定するものたちに爪痕を残すことが出来たなら。
それだけ自分の存在には意味があって、こんな世界に生まれ落ちた価値もある筈だと。そう信じるしかなかったから、インキは革命家としての道を歩んできた。

だから、ヨリコに全てを忘れると言われた時、インキは心底悔しかった。それこそ、心が完全に壊れてしまいそうになるくらい。


「他の誰が否定しようと、世界の全てが否定しようと……俺が、俺自身を否定する訳にはいかない。だから俺は、俺のしてきたことが過っていたなんて、口が裂けても、舌が爛れ腐っても言わない。例え、お前はあのまま死んでいたとしても……結果的に世界が何一つとして変わらなかったとしても、だ」


けれど、ドン底まで絶望したことで、インキはさめた。
それまで自分を突き動かしてきた憤激の熱も、酔いしれるような狂気も、激烈な憎悪の色も。

何もかもが、さぁっと引いていくような感覚の後。インキの中に残ったのは、自分を狂わせる程に強く根付いていた願いだった。

静かに眼を閉じれば、いつでも手に取れる位置にあったのに。いつの間にか形さえ見失っていた、ただ一つの想い。
強く強く、手を伸ばしても届かないと知りながら、それでも求めたそれは、救いだった。


「……えぇ。それでいいんですよ」


許してなど、くれなくていい。口先だけの優しさなんて、寄越さなくていい。
己が世界の中に在ることを知らしめたくて、誰かの胸に自分を刻みたくて犯した罪を、恨んでくれていい。憎んでくれていい。

それでも、自らのアイデンティティさえ保てずにいた哀れな男がいたことを、認めて欲しいのだ。

帝都クロガネ始まって以来の、最低最悪のテロリストを。壊れたプリンター頭のモノツキを。その存在を。どうかこの小さな世界の片隅にでも置いてくれ。

散々に遠回りをして辿り着いたその想いを、ヨリコは小さく笑って、呑み込んだ。


「懺悔も後悔もしなくていいんです。絞首台を降りる最後の瞬間すらも、後ろめたさや罪の意識なんて、欠片も感じなくていいんです。何せ貴方は……帝都クロガネきっての大悪党である私が認める大々々悪党なんですから」


まるで、無意識の内に砕いて鏤めていた本心を見透かされているようで、インキは暫く返す言葉を見付けられずにいた。


ヨリコは、気付いていたのだ。

間違っていなかっと言いながら、正しかったとは言わなかった本意を。今際の時に、彼女にこんな言葉を遺していった意味を。


気付いた上で、こんなことを言ってのけるなんて。本当に、どうかしている。
だからこそ、彼女は世界を変えることが出来たのだと確信してしまう。

インキは、口が次第に吊り上っていくのを感じながら、それを誤魔化すように仰々しい溜め息を吐いてみせた。


「……お前は、最後の最後まで酷い女だな」

「よく言われます」

「社長も苦労するだろうな。お前みたいな奴が傍にいるんだ。きっとその内、胃が蜂の巣みたいになって死ぬだろう」

「まさか、第二胃が……」

「そっちのハチノスじゃない」


自分は、これでいい。

最後の最後まで大々々悪党らしく、揺らぐことなく、人間嫌いを貫いて死んでいけばいい。それを、彼女が認めてくれたのだから。


インキは、声として発することが出来なかった一言を無音で刷りながら、その紙を吐き出してしまわぬよう、パイプ椅子の背凭れに深く凭れ、天井を仰いだ。


「そういえば、外で社長が待っているんじゃなかったのか」

「あっ、そうでした!今日はこれから、高校の卒業式なんです!もうそろそろ行かないと……」


幾ら面会日が限られているとはいえ、高校の卒業式直前に、自分を一度殺した相手に会いに来るか。

本当に、つくづくどうかしている女だと、インキは慌ただしく締め括りにかかるヨリコを鼻で一笑した。


「それじゃ、インキさん。お元気で……っていうのも変ですけど……」

「来週には終わる命だからな」

「……それでも、お元気で」

「ああ。せいぜい元気に生きて、元気に死んでやる」


彼女の言う通り。絞首台を降りる最後の瞬間まで、自分は最低最悪のテロリストとして在り続けよう。
その生き様も死に様も、忌まわしきものとして帝都史に残されることに欣喜雀躍しながら、大々々悪党として華々しく散ってやろう。

だから、こんな奴の最期を思って、眉を下げたりするんじゃないと、インキは名残惜しそうに此方を見遣るヨリコに、呆れたような笑みを見せた。


「ホシムラ・ヨリコ。最後に……これだけ覚えておけ」


皺寄る眉間も、細めた黒い瞳も、伸びっぱなしにされた灰色の髪も歪んだ口元も、全て曝け出して。
これ以上となく眼を見開いて驚くヨリコの形相に、腹を抱えて笑い出したい衝動をどうにか堪えながら、男は祝福にも似た言葉を授ける。

大丈夫。自分は本当に、何一つ悔やむことなく逝けると言うように。


「俺の名前は……スルガ。スルガ・スミタカだ。いつかお前も地獄に来る時は、この名を頼ってくるといい」


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