モノツキ | ナノ
「なん、で……」
ヨリコは力無く問うた。
「どうして……どうして茶々子さんなんですか…」
何度でも、何度でも、問い質したかった。
すすぎあらいに、ではない。
彼女が――茶々子が何故、其処に至ってしまったのか。その不条理を、ヨリコは問いたかった。
「だって、茶々子さん……いっつも昼さん達の為に一生懸命で……あんなに優しくて…………なのに、そんな」
「……俺にも、分からない」
最初にこの答えに辿り着いたすすぎあらいも、ヨリコと同じことを思った。
状況を整理して、鑑みて、彼女を疑ったのは他ならぬ自分自身でありながら、すすぎあらいは頭を抱えた。
可能性が最も高いのは、何度考えても、やはり茶々子だ。
だが、どうして彼女がそんなことをするのか。それが分からず、すすぎあらいは、やはりこれは、自分の思い過ごしなのではと悩んだ。
「茶々子は、あんたが言う通りいい奴だ。だから、俺も……自分の勘違いで済ませたいと思っている。
本当は、アマテラスの連中が全部勝手に上手いことやったんだって……その理論を立てようと、必死に考えた。でも……やっぱり此処に辿り着いてしまった」
けれど、考えれば考える程、疑惑は深まり、堂々巡りを繰り返すばかりで。
すすぎあらいは、きっとこれは、一人で考えていてもどうにもならないと、ヨリコに意見を求めることにしたのだ。
「茶々子がやったって証拠は、まだ出ていない。あいつが社長や、俺達を裏切る理由も、見えてこない。……だから俺は、あんたにこれを話そうと思った」
容疑者が他の誰であっても、自らの思考を疑うことはしただろう。
けれど、これだけ思い悩んでしまっているのは、すすぎあらいの目から見ても、茶々子は金で人を裏切るような人物には思えないからで。
そんな彼女を疑い、裏切り者として洗い出そうとして――それでいいのかと、すすぎあらいは迷っていた。
「なぁ、ヨリコ。俺は……このままでいいと思う?」
もし本当に茶々子が犯人だとしても、その罪を暴き立てることで、様々なことが崩壊してしまうだろう。
茶々子を慕っている火縄ガンやサカナは、酷く狼狽するだろうし、他の社員達とて、社内に裏切り者がいて、しかもそれが彼女であったことに衝撃を受けるに違いない。
そうなったら、ツキカゲはこれまでのように回らないだろう。
少ない社員の内の一人を欠き、残された大きな傷痕から軋みを上げ、端から崩れていくのは、眼に見えている。
ならば、もしかしたら、気のせいかもしれないという希望に賭けてみる方が、いいのかもしれない。
ただ、其方を選んだ場合、昼行灯が救われる可能性は著しく低下する。
彼の無実をあちらに認めさせるにあたり、内通者の存在というのは非常に強力な武器となる。
無論、あちらも知らぬ存ぜぬを貫こうとするだろうが。主犯と共犯の間には、何かしらのやり取りがある筈だ。そこを掴み取れれば、勝機が見えるかもしれない。
茶々子をカゲヨシの共犯者と仮定し、彼女の周囲を洗うことで、昼行灯の無罪を勝ち取る為の材料を手に出来る確率は高く見ていいだろう。
葛藤が、判断を鈍らせる。
此方に許されている時間はそう、長くはない。恐らく、ヒナミが目覚めるより先に、向こうは決着を付けにくるだろう。それこそ、今日にでも。
これ以上迷っていては、全てが崩落しかねない。
だから、今すぐにでも、すすぎあらいは答えが欲しかった。
「あの優しい茶々子を疑って、洗い出そうとして……本当に、それでいいと思う?」
この決断を彼女に決めさせることが、どれだけ酷なことか。すすぎあらいとて、分かっている。
誰よりもツキカゲの平穏を重んじ、社員達の無事を祈っているヨリコに、昼行灯か茶々子を取れと言っているようなものだ。
二人のどちらかが欠けるなら、その代わりに自分が落ちて構わないと言えるような彼女に、こんな――。
それでも、すすぎあらいは、ヨリコの正しさと、彼女が齎してきた数々の奇跡を信じ、託した。
決して救われることなどないだろうと思われていた、呪われた者達の心を導き、救済を与えた彼女なら、昼行灯も茶々子も救う道を見出してくれる筈だと。
すすぎあらいは縋るような想いで、ヨリコの言葉を求めた。
「…………私は、」
未だ、打たれたような衝撃で揺れる脳内では、かつての光景や心情が、走馬灯のように駆け巡っていた。
思えば、昼行灯も茶々子も、初めてツキカゲに赴いた日からの付き合いだ。
自分をモノツキだとばかり思い込んでいたが為に、ごく普通の人間がやって来たことに驚いて。
茶々子の方など、同性の社員が出来ると浮かれていた反動で、酷く狼狽してしまっていた。
けれど後日、採用が決まってから会社に来た時は、快く自分のことを受け入れてくれて――あれから、昼行灯も茶々子も、とても良くしてくれた。
二人共、ヨリコにとって大切な人だ。どちらの方がより大事かなど、選ぶことも出来ないくらいに。
例え、茶々子が昼行灯を、ツキカゲを裏切ったかもしれないという仮説が、限りなく真実に近いものだとしてもだ。
罪を犯したからと、茶々子を糾弾することは出来ず。かといって、昼行灯を見捨てることが出来る訳もなく。ヨリコは、酷く迷った。
一体、何を選んだらいいのだろう。どうしたら、誰一人欠けることなく、全て救い出すことが出来るのだろう。
そんな理想論を振り翳しては、何もかも取り零すことになると、見えない誰かに批難されている気になる。
だが、それでもヨリコは、何も捨てたくはなかった。
「私は……茶々子さんのことを信じています。でも……すすぎあらいさんのことも、信じています」
――そうだ。何一つとして、手離して堪るものか。
自分にとって、世界で最も尊く、愛しいものを、憎悪と欲望に塗れた手に奪われてなるものか。
そう思えば、何も迷うことはなかった
「誰も、疑いたくありません……だから、真実を知る為に、やれることをやらなきゃいけないって……そう思いました」
すすぎあらいが、いっそ困惑するくらい強い声でそう言うと、ヨリコは真っ直ぐ前を向いて、立ち上がった。
視線の先には、高く聳え立つアマテラス・カンパニーの本社ビルティング。
あそこに巣食う強大な敵を相手に、自分が出来ることなど何があろうかと、先程まで折れかけていた。
しかし、すすぎあらいが見付け出してくれたものが、ヨリコに提示してくれた。
救いの道は、閉ざされてはいない。とても小さく、今にも塞がれてしまいそうだが、突破口はあるのだと。
僅かに射し込む光を見付けたヨリコは、座り込んでなどいられないと、ベンチから腰を上げ――すすぎあらいに手を伸ばした。
「だから、すすぎあらいさん。私と……共犯者になってください」
ごうん、とドラムを鳴らし、すすぎあらいは差し出された小さな手を眺めた。
苦悩の果て、ヨリコが何を見出したのか、彼には未だ見えていない。
昼行灯か茶々子か。その二択ではなく、第三の答えを選らんだ彼女が、如何ようにして真実に挑むのか――。
確かめるように、ゆるゆると顔を上げたすすぎあらいを待ち受けていたのは、悲痛な想いさえも取り込んだ、ヨリコの笑顔だった。
「この事件の真相を明かす為……私と、共犯者になってください」
今にも、泣き崩れてしまいそうな儚さを湛えていながら。それでも、ヨリコは確かに笑っていた。
不安はある。だが、それ以上に彼女は、信じていた。
昼行灯の無実が証明されることも、茶々子が裏切り者ではないことも、すすぎあらいとなら大丈夫だということも。
――だったら、自分もそれに応えなければならないだろう。
「……いいよ、ヨリコ」
すすぎあらいは、ようやく伸ばされた手を取って、それを力強く握った。
彼女が正しいと示してくれたなら、自分はその道を辿るだけだ。
例えそれが、どれだけ無謀なことであろうとも。指針が彼女である以上、迷いはしない。
すすぎあらいは、強い引力に引かれるようにして立ち上がり、強く頷いた。
「あんたが俺を信じてるように、俺も、あんたを信じる。……俺達二人で、みんな洗い出してやろう」