モノツキ | ナノ
最初に誘いを受けた時、ポケットには、密会先の地図を捩じ込まれていた。
それに従い、辿り着いた先――使われていない駐車場跡地で、待ち構えていたエイスケと、サカナは対峙していた。
「来てくれて嬉しいぜ。ツキカゲ相手にお前がこっちついてくれるのは心強いし、何より、なんだかんだあったけど、俺とお前は昔馴染だしよ」
昔馴染としての情など、欠片も持ち合わせちゃいないだろうに。
平然と欺瞞の言葉と笑みを向けてくるエイスケに、サカナは拳をぎゅうと握った。
彼が、此方を騙くらかそうとしているのは、どうでもい。
自分だって、散々に人を欺いてきたのだ。今更、騙されたことに憤慨出来る筋合いなどない。
しかし、だからこそ。サカナはエイスケの、薄っぺらな言葉が気に食わなかった。
こんな言葉で、自分を欺けると、彼自身思っていないだろう。
サカナが自分の本心を見破っているのを承知の上で、エイスケがサカナを安堵させるような笑顔と言葉を差し向けてきたのは、欺騙ではなく、恐嚇だ。
己の嘘が、見破られる前提での、嘘っぱち。
この偽りの状態が保たれている間は、少なくとも自分の身の安全は保障されると、サカナに思い知らさせるのが、エイスケの目的であった。
「昼行灯共の駆除に成功した暁には、ダンナはお前に、恩赦を与えてくださるそうだ。この先のことも、安心しろよ」
恐怖心に追い込まれては、幾ら賢しい彼でも、見え透いた撒き餌に食い付かずにはいられない。
助かりたい。その一心で、彼はまんまと釣られ、一時の安息に身を置くことを選ぶ。
例えその先に、裏切りが待ち構えているとしても、だ。僅かにでも希望があるのならば、彼は其方を選ばざるを得ないのだ。
「で、カイの奴はどうした?まさか、逃がした矢先に、またとっ捕まったなんてこと」
全く、臆病者は扱い易いものだと、エイスケはのこのこやってきたサカナに、歯を剥いて嗤った――が。エイスケの張った罠は、彼を捕えるには足りなかった。
「……僕は、一人だ」
エイスケが、予期せぬ答えに呆ける間に、サカナは腰に忍ばせていた拳銃を取り出した。
あの時――屋上で、火縄ガンからくすねていた、一丁のハンドガン。
それを、微かに震える手で握り締めながら、サカナは瞠目するエイスケに、正面から、自分の言葉を投げかけた。
「ツキカゲは昨日辞めてきた。もう僕は、あそこには関係がない。だから僕は……あの人達を裏切ることが出来ない」
我乍ら、頓智めいたことを言うものだと、サカナはヤケクソ混じりに笑った。
そう。自分はツキカゲを辞めて、逃げ出して、此処にやって来た身だ。
きっと今頃は、手紙と辞表が見付かって、自分は忘恩の徒と見做され、あそこから切り離された筈だろう。
孤立無援。たった一人の味方もない今、サカナが裏切れる者は、いない。
透き通った水槽の中で、嫌に鮮やかな色に染まった熱帯魚を泳がせながら、サカナは、初めて本音で人の鼻を明かしてみせた快哉に浸っていた。
「もう僕は、誰も裏切りたくない……。散々人を欺き、騙してきた僕が今更だけど……それでも僕は、あの人達だけは裏切らない」
多くの人を騙し、数えきれない程の罪を重ねてきた。それでも、ツキカゲだけは裏切らずにいたいという身勝手な願い。
知られてしまえば、呆れられるだろう、失望されるだろう。だが、この想いを彼女達が知ることは、ない。
失うものは、先に切り落としてきた。大層な痛みが伴ってきたが、それも、罰と思えば、ちょうどいい。
サカナは、ごぽごぽとクリアな泡を上げながら、エイスケに向けて真っ直ぐに銃を構えた。
差し違えることさえ、出来ないだろうが、それでもいい。
大事なのは、彼に背くこと。自分の意志を、本心を貫くことなのだからと、サカナは引き鉄に指を掛ける。
「こんな僕を受け入れてくれたあの人達を……沈めさせはしない」
「……成る程。それで、一人轟沈しにきたっつーことか」
吐き出された溜め息が消えるように、目の前からエイスケの姿が失せた。
一体何処へ――と思考している刹那。サカナの体は強い衝撃を受けて、後方へと吹っ飛ばされた。
地面に打ち付けた背中より、痛烈な一撃を食らったらしい腹部が、酷く痛む。
その痛みを、血反吐と共に嘔げる間もなく、鳩尾を抉るような蹴りに見舞われた。
「ナメた真似しやがって……」
此方が胸中を曝け出したことで、あちらも本性を現してくれたようだった。
エイスケは、身を丸めるサカナを何度も執拗に蹴り付けると、罅から血を流す彼の頭を無遠慮に掴み上げた。
「お前みたいなのが今更、罪滅ぼしでもしてるつもりか?!あ゛ぁ!!?」
潰れそうな肺から、咳が止め処なく出てくる。それが煩わしいと言わんばかりに、エイスケは槍で、サカナの頭部を殴打した。
その衝撃で、再度地べたに転がったサカナは、暫し咽び続けていたが。
未だ気が治まらない様子のエイスケが首を絞め上げてきたところで、彼は息も絶え絶えながらに、言葉を紡いだ。
「……いや。僕じゃ、いくら罪を滅ぼしたって……キリが、ない……だろう……」
自分の罪の重さは、抱えて来た自分が一番よく分かっている。
一生を懸けたって足りず、償い切れない罪状の数々。それらから、サカナは解放されたいとは思わなかった。
何をしたところで、全て無かったことになど出来やしない。どれだけ取り繕っても、塗り固めてみても、逃れようがない。
罪とはそういうものなのだと、サカナは理解している。
だからこそサカナは、最後の望み以外の全てを置いて、此処に来たのだ。
「僕は……それだけ最低なことをした……けど、僕は……僕、は――」
最初から、自分は一人きりだった。
狭い世界に置き去りにされ、其処から助け出された後も、自ら作り出した檻に閉じ籠って。
痛んだ心を誰にも見られぬよう、触れられぬよう、暗がりに心を眩ませて、孤独を深くしていた。
自業自得のアイソレーション。その果てに、また懲りもせず、手を伸ばしたいと渇望してしまったあの場所を――ツキカゲを、サカナは守りたかった。
(……サカナさんは、何を望んでいるんですか?)
(貴方は……どんな幸せがほしくて、嘘を吐いているんですか?私は……その答えこそ、サカナさんの本心だと思います)
幸せになんて、なれなくてもいい。
あの人達が、無事にこの危機を脱することが出来るなら。このまま、死んでしまったって構わない。
だから、もう嘘は吐かないのだと、サカナは薄れゆく意識の中で、確かに笑った。
アルトルイズムなど、クソ喰らえだと思っていた。
しかし、誰かの為に傷付くのも、その果てに一人で息絶えることになるのも、悪くはない。
少なくとも、隔絶された世界で、傷付くまいと蹲っていた時よりは、ずっと心が満たされている。
多少の寂しさはあるが、それも直に、失われるだろう。
霞んでいく視界が、涙で滲んでぼやけていく。
サカナは、抗うこともせず、祈りを込めて目蓋を下ろした――その時だ。
「そういうことは、後で報告書にきっちり書いていただきましょう」
意識の奥底まで響いてきた声に、眼がこじ開けられた。
その次の瞬間には、体が宙に投げ出され、何事かと頭が考える間もなく、衝突音が鳴り渡った。
不様に転がった痛みなど、気にしていられなかった。
自分を放り投げて、槍を振るうエイスケと、彼に次から次へと浴びせられる怒濤の攻撃に、サカナは愕然とするしかなかった。
余りにも都合のいい夢を見ているようだった。
だが、嫌に冴え渡る感覚が、これは紛れもなく、現実だと告げて止まない。
飛び交う鉄の杭。槍の攻撃を躱し、翻り、反撃を繰り出す痩躯。何より、見紛う筈もない、ランプの頭――。
「勝手に火縄ガンの銃を持ち出した始末書も一緒に、ね」
「しゃ、社長?!」