モノツキ | ナノ


(へ……これ、私に…ですか?)


何故あの子に、あの花を手渡そうと思ったのか。自分でもよく分かっていなかった。

たまたま貰って、処遇に困っていたとはいえ。そのまま、買った花束と一緒に供えてもらっておけばよかったものを。
どうして俺は、わざわざ持ち帰って、あの、小さな百合を渡したのか。


(ありがとうございます、すすぎあらいさん。お花、とっても嬉しいです)


嗚呼、そうだ。あの子は、よく似ているんだと。あの時までは、そう思っていた。


(私は……昼さんに………皆さんに、あの人達と戦ってほしくないんです)


あの子は、俺なんかよりずっと強かった。

心が淀み切るような想いにも屈せず、濁ることもなく。それで自分が何より傷付くことになっても、あの子は――怒りや憎悪に染まることなく、綺麗であり続けていた。


(あんたさ…今、洗濯は汚れたものを洗うことだって言ったよね。だったら……俺がしてるのは間違いなく洗濯だ)

(性根まで汚れきった奴らを、こうして洗ってんだからさぁ…何も、間違ってなんかない。俺の選択は、間違ってなんかないんだよ)

(糞ッタレな豚野郎共を殺したって、間違ってる訳ないんだよ!!
これが正しいんだよ、正しくない訳ないんだよ!!!同じなんかじゃない…こいつらなんかと俺が!同じである訳ねぇんだ!!!)


その清らかさに触れて、俺は漸く、自分の選択が間違っていたことを認められた。

俺がしたことは、正しくなんかなくて。俺がやったことは、あいつらと同じ人殺しで。
けど、だとしたら。俺が父さんや母さんのことを想う気持ちはなんだったのかって、ずっと受け入れられなくて。

自分で汚した手を誤魔化すように、周りを汚して、埋もれて、溶け込もうとしてきていたけれど。
俺と同じ選択を迫られたあの子の出した答えが、そうして隠してきた俺の本心を取り除いてくれた。


(私のお父さんとお母さんみたいに……また、大切な人が奪われてしまうんじゃないかって……そう考えたら、怖くって………)


そう、だから俺は、あの子にあの花を――白い百合を手渡したんだ。

自分には似つかわしくないと言ったあの花を、似ても似つかない、清らかな彼女にと。




「あら、意外。あんた、兄さんに似て片付け下手だった筈なのに」

「……片付けたんだよ、ついこの間」

「あ、やっぱり?やたら洗濯物多いし、消臭剤の匂いするからそうだろうと思ったのよね」


ヨリコとの大掃除から数日後。ゴミも捨て終えて閑散とした部屋を、エツコは驚きと感心の声を上げながら眺めた。

すすぎあらいの散らかし癖は父親譲りの筋金入りと知っているが故に、こうも部屋が綺麗さっぱりしているのはおかしいと思ったエツコだが。
彼女が驚嘆したのは部屋の有り様より、彼がわざわざ掃除したという事実にあった。


「私が来るから?それとも、気分転換?」

「両方、だけど…………うん、どっちかっていうと後者」

「……そう」


あの夏。全てを失い、自ら汚濁の道へ踏み出した彼は、茫然自失と惰性に憑りつかれた。
そして、何をしても報われはしないと諦観し、身の回りを気にすることもなく過ごしてきた彼が、率先して部屋の片付けをするとは。

気分転換、というより、心変わりというべきなのだろうか。
いつものジャージ姿ではなく、真新しいTシャツとズボンを着ているのも、きっとそうなのだろうと、エツコは出されたマグカップに口をつけた。

この間までの彼ならば、まず茶を出すという発想にさえ至らずにいただろうに。
余程のことがあったのだろうと思いながら、エツコはアイスティーを一口飲んだ。


「こないだ電話した時から思ってたけど……あんた、なんというか垢抜けたわね、キヨツグ」

「…………垢抜けた、か」


すすぎあらいは、自分の手元のカップに視線を落とした。


エツコに出す為に買ってきた、ペットボトル入りのアイスティーの水面には、また少し髪が伸びた青年の顔が映っている。

この顔を見ることが出来るのは今、世界中で彼一人しかいない。
洗濯を間違えた日。つくも神に呪われ、洗濯機に変えられたマシロ・キヨツグの顔は、すすぎあらいしか眼に出来ない。
よって、少し前まで鬱屈しきっていたその顔付きが、幾何か変わったことも、彼しか知らない。


それでも、エツコは見抜いていたようだった。

両親の命日に会った日から、今日までの間。季節が移ろう間に、彼の心が大きく変わったことを。


それが、少し照れ臭いような、嬉しいような。複雑な心情だと苦笑を浮かべ、すすぎあらいはカップを手に取った。


「そうかも……いや、うん……そうだな。あの子に洗い出されて……俺は、ちょっと垢抜けた」

「……あの子、っていうのは」

「あの時の花を渡した子」


エツコに、彼女の話をしたことはなかった。

話す理由も、話す内容もないと。そう判断し、一輪だけ手元に残していた花の行く宛を問われた時も、彼女について何も語らずにいた。

故に、エツコはすすぎあらいの言う「あの子」の名前さえ知らないのだが。
小さな白百合の花が見合うと彼が感じた「あの子」が、どのような人物なのかは、頭の中ではっきりと浮かんでいた。


「あの子は、全くそんなつもりなかっただろうけど……あの子の選択で、あの子の言葉で……俺は救われたんだ。
ずっと閉じていた窓が開いて、新しい空気と光が入ってきたみたいな……そんな感じになって。だから、かな。部屋も綺麗にして、色々入れ替えたいと思ったんだ」


誰よりも清く、正しくあった父の愛した花。

それに似た少女が、選択を過ち、穢れていった彼を洗い出してくれたのだろうと、エツコは眉を下げた。


(父さん!!母さん!!!おい…どうしてだよ…どうしてだよぉおお!!!)


ブルーシートに覆われた家の前で、血の匂いに中てられて壊れてしまった彼に、自分は何もしてやれなかった。

本人が望むように、一人にしてやるのが一番だと判断し、彼にあの惨劇を起こさせてしまった。

もし当時、自分がもっと彼と向き合っていたのなら――そう悔やんできたエツコは、ようやく救われた甥の姿に眼を細めた。


未だ、彼の頭は洗濯機のまま。だがそれでも、彼は救われていると、そう思える。
血溜まりの中に蹲って、蓄積されていた彼の穢れと悲しみを、「あの子」が吸い上げてくれたのだろう。

エツコは、名も知らぬ少女に思いを馳せながら、頭の中に浮かんだ言葉をぽつりと呟いた。


「そう……その子、あんたのカサブランカなのね」


思い掛けない言葉に、すすぎあらいはゴウンと短く頭を鳴らした。

その反応が、無性に可笑しくて。エツコはクスクスと笑いながらカップをテーブルに下ろして、懐かしむように両の手を合わせた。


「兄さんが好きだった小説……あんたも読んでたでしょ?”ディア・カサブランカ”。あれに書いてあったじゃない」

「…………あぁ」


すすぎあらいは、栞を挟み込んだページを開くように、エツコが引用せんとしている文章を頭に浮かべた。


あの場面は確か、そう。愛する令嬢の死後、庭師の男が、白百合の花弁を海と風に流していくシーンだった。

澄みきった青の中に、散っていく白い花びら。
それに、魚のように海を渡り、鳥のように風を切りたいと望んでいた彼女を重ね。男は百合の花を千切りながら、一人想うのだ。


――君は何よりも清く、美しく、眩く、尊い。僕のカサブランカだった。鬱然とした過去も、悲しみに暮れる今も吸い上げて、孤独を迎え入れてくれた。愛しい、僕のカサブランカ――


繰り返し読んだその一文を、すすぎあらいは指でなぞるように反芻し、アイスティーと共に嚥下した。


眼を伏せると、目蓋の翳りに、彼女が映った。
初めて出会った日――血に塗れた自分の姿に青褪めていた彼女を見た時は、こんな日が来るとは思ってもいなかった。

血と臓腑の匂いを知らないだけ、ただ穢れていないだけの、ごく普通の少女に、深い絶望がこびりついていた心が救われるなど、考えもしなかった。

自分だけではない。きっと彼一人を除いて、誰もが彼女に救済を与えられることになるなどと、思いもしなかっただろう。


「……俺の、っていうより、俺達の…………かな」


最初から彼女を信じていた男は、未だ救われていない。いや、報われていないというべきか。

自分のように、その身を呪いに蝕まれたままでも、彼もまた、確かに救われている筈だ。
罪人に成り下がる前から胸を苛んでいた痛みを、それを隠す汚泥を取り除かれて、彼も――昼行灯も変わった。

例えその姿が変わらず、つくも神に赦されぬままであろうとも。とっくにその心は、救済を得ているのだ。


すすぎあらいは、おかしなこともあるものだと、あの日、罪を履き違えた小さな神を嘲るように、シニカルな笑みを零した。


「あの子は、意図せず色んな奴の心を洗い出して……欲しい言葉を与えてくれる。神様より神様らしい……そんな子だから」




もし この世のあらゆる不浄をも、愛することが出来たのなら。

頭の中で回り続ける、濁流のような思いをなかったことに出来ただろうか。
静かに息をすることを選ぶ自身を、認めることが出来ただろうか。

そんなこと、今更考えても仕方ないことだと、俺はようやく答えに辿り着けた。


「さて。それじゃ、この間のサカヅキ事件について、詳しく聞かせてもらいましょうか」

「あぁ……そういえば、その為に来たんだったね、おばさん」


俺はやっぱり、あの洗濯を後悔していない。

もう、あれが正しかっただなんて思っていないけれど。あの過ちの先でしか、俺は、本当の救いを得られなかったと、そう思うから。


「ちゃんと、隠すべきとこは隠しておくから。取り敢えず、主犯のインキについて……」


なぁ、神様。あんた達よりもずっと神様らしいあの子は、教えてくれたよ。

あの選択は間違っていたけれど、俺はそれでいいんだって。


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