モノツキ | ナノ


誰もが触れずにいようと努めていたものに、シグナルは手を伸ばした。

目に見える脅威を素知らぬ振りをしてきた茶々子達が、撤回を要求せんと口を開くが 
それを許さぬ勢いで、シグナルは続けた。


見て見ぬ振りをするのは気が楽でいいだろう。
眼の前の脅威が、いつか奇跡か何かで消え、誰もが望む幸福な結末が来ることを祈っている方が、平穏であるだろう。

だが、忘れてはならない。この世界は須らく、優しさなど持ち合わせていない。
祈るだけで救われる構造などしていない、眼を逸らしていては首を掻かれる仕組みをしている。

そんなことは、この場にいる誰もが、自身の身を持って証明済みである。


「現状に甘んじて泳がせて、嬢ちゃんが自分の眼の届かないところで、
誰かの手に捕まった時――お前は、間違いなくあの子を殺す。
嬢ちゃんの手を掴んだ人間ごと、徹底して、一切の容赦もなく殺す。
そして、その時は俺らももれなく被害を被ることになるだろうなァ」


僅かな脅威も、見つけ次第叩いて潰せ。
最低限ギリギリで保たれている安い平穏の為には、誰かを傷付けることも止むを得ないものだと開き直れ。

そうして生きてきたのは、今現在、その平穏の為に傷口に指を突っ込まれている昼行灯も然りである。

今この場で惨めに立ち尽くしている彼も、立場上は此処にいる社員達を背負う者。
この絶望渦巻く帝都の裏社会に齧り付く、有限会社の社長である。

彼を煽るシグナルも、それを不安げな面持ちで見ることしか出来ずにいるサカナ達も。
明日のちっぽけな平穏は、他ならぬ昼行灯の手に委ねられているといっても、間違いではない。

いつ理不尽な制裁に遭うかも分からぬ身で、どうにか今日まで食い繋いでこれたのは、安定した地盤を築き上げてみせた手腕を持つ昼行灯がいたからだ。

その彼自身が壊れてしまえば此処はどうなるか。
誰も昼行灯という存在にただ甘んじてきた訳ではない為、即座に会社が崩壊するということはないだろう。
だが、大きな柱の抜けた会社は、内側から崩壊していく。考えずとも網膜に浮かぶ、最悪の未来ビジョンだ。

それを避けたいが為に、シグナルは昼行灯の心臓に手を突っ込むような真似をした。


「シグナルの言うこと、アタシも御尤もと思うヨ」


そして、つい最近。同じことを危惧し、似たようなことを言った火縄ガンが、彼に便乗する形で前に出た。

現状に不安を抱いているのは、シグナル一人ではなかった。
いや、口にするのを嫌がっていただけで、当人すら痛感していることだろう。


「こないだのカタギ娘の件……あれでボスも思った筈ヨ。
ヨリコを此処から…ボスの手元から連れ出す人間は、必ず現れるってネ。
友人か恋人か、そこは分からないけど…ボスよりも近しい者に、ヨリコはいつか攫われるヨ」


祈るだけでは、崩壊は遠からず訪れる。

その時、このちっぽけな雑居ビルはこれまでと比較にならない程、血生臭くなるだろう。


「その前に、自分がヨリコを手にしなきゃダメヨ、ボス。アタシ達、やることやらずに狂ったアナタの尻拭いはゴメンヨ」


動かなければ無情に流されるだけだ。抗わぬ者が凄惨な結末に辿り着き、それに周囲の者が巻き込まれる。
それを回避する為に、シグナルも火縄ガンも、昼行灯に踏み出すことを要求している。

たかが一歩足を踏み出すのに、彼がどれ程の覚悟を要しているか 承知の上で。


「……昼さん、」

「…………分かって、います」


気を取り持たせよう、と伸ばしかけた手を、茶々子はすぐに引っ込めた。

ずるずる、積み上げられた礎が崩れていくように床に座り込んだ昼行灯は、壁に背を預けて、薄汚い天井を仰ぎ見た。

まるで死の間際を感じさせるその動作に、誰もが胸に爪を立てられたような気分に陥るが。
当の本人は、鋭利な刃物を突き立てられ、そこから引き裂かれたような心境だろう。


「いつまでも、彼女が傍にいてくれる訳がないことは、重々…分かっています」


顔を隠すように覆う手で、きぃ、と頭の硝子を僅かに引っ掻いて。昼行灯は竦み上がる喉笛から、声を絞り出した。

誰よりも理解していることを、自ら口にすることが、こんなにも恐ろしいことだったろうか。
言葉にすればそれをより認めてしまうようで、ただ真実を述べることが、世界中の人間を欺くことよりも難しく感じる。


――望むだけでは手に入らない。見つめているだけでは、どれだけ欲しい物でも別の誰かに摘み取られてしまう。

手を伸ばす人間を残らず駆逐しようとも、決して自分の手の中に納まることはない。
だが、他の誰かと同じように彼女を求めるには。彼には恐れるものが多過ぎる――。


「………それでも、それでもまだ…手が、伸ばせないんです」


震える手に爪が食い込む程、拳を握り固め。昼行灯は暗がりに一人立たされた子供のようなか細い声を零した。

もう、シグナルも火縄ガンも 何も言うことはなかった。


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