モノツキ | ナノ
ヨリコが昼行灯とウライチで発見され、一時的な離別の末に二人が和解して。学校生活に戻った彼女を待っていたのは、根も葉もない噂による洗礼だった。
目撃者――リョーと、その仲間が面白半分に広めた、そう遠くない将来家を出され、身寄りも行く宛もなくなる彼女が、金を得る為にモノツキを相手に売春をしているといった虚実。
彼女がいない数日の間にそれは様々な尾鰭をつけて拡散され、学校に戻ったヨリコは好奇の眼に曝された。
それまで浮いた存在でこそあれど、日常に於いては平穏であった筈の彼女の生活は一変し。学校の何処にいようとも周囲の注目を引き、同情だけでなく侮蔑や嘲笑を含めた陰口が耳を打ち。
果てには、無縁であった筈の生活指導部からの呼び出しまでもがあり、一時期彼女は進級すら危ぶまれる状態になった。
誰から見ても真面目そのものである彼女が噂のような行いをしているとは、本来ならば鼻で笑われる話である。
更に、出所も校内で著名な不良生徒からと、信憑性の欠片もない馬鹿げた話に違いない。
だが、彼女を取り巻く特異な環境と 彼女を深く知る人間がいないこと。その二つの問題が、ヨリコの影となっていた。
前者はこの突飛な話に妙な説得力を持たせ、後者は本当の彼女の在り様を、第三者の作り出した虚像に埋めていく原因となった。
こうして、ヨリコは只でさえ居心地の悪かった学校に於いて、隔絶される存在となりかけてしまっていた。
異形を相手に体を鬻ぐ愚かな少女と認識されたヨリコは、それでもツキカゲでは笑っていた。
此処でこうして笑っている間に、勝手に噂も消えるだろうと、望みを掛けていたのかもしれない。
それは都合がいいようにも思えるが、彼女には、そうする他になかったのだ。
弁明すれど、それを心の底から信頼する者はいない。中傷されようと、彼女を庇う者もいない。
味方のいないヨリコには、祈ることだけが、残された手段だったのだ。
それを、昼行灯は気付いていた。
ヨリコが何も言わずとも、あの日――リョーらに目撃された瞬間から、そうなることは目に見えていたのだ。
常に底辺に位置するが故に、常に最悪の想定が構築される頭で、昼行灯は理解していた。
ヨリコが自分といたところを見られたことで、何かしらの被害を被ると。
「私が傍にいるだけで、ヨリコさんにとっては悪影響になるのです。
それを知っていながら…彼女の近くに身を置いた。自分で自分の後始末をするのは…当然のことでしょう」
考え得る限りの災厄の芽は、全て潰した。
モノツキと関わっていることを握った彼が、ヨリコを脅迫するだろうことが目に見えたから、先に脅しを掛けた。
彼らが吹聴した噂がヨリコを苦しめることが手に取るように分かったから、表に精通する人脈を使ってまで火消をした。
ヨリコを襲うあらゆる火の粉を振り払い、彼女にとって平穏である日常が戻るように。
自分と関わったが故に壊されかけた、彼女の穏やかなる日々を、自らの手で修復した。
どんな手を使うことも厭わず、どんな労力を掛けることもよしとしたのも 全ては贖罪の為。
そうしてどうにか、彼女の傍に有り続ける体裁を、昼行灯は保っていた。
自ら崩した砂の山に、突き立てられた棒が倒れないようにと、また砂を寄せるような。不毛で、終わりの見えない贖いだった。
「ですから…私が報われた気になるのは、お門違いもいいところなのですよ。
それに、報われたのは私なんかではなく…彼女の真面目さと、誠実さなのですから」
途中まで自嘲するように語っていた昼行灯だが、最後の件だけは朗らかな声色をしていた。
彼は、彼女と出会ってからというもの、いつもそうだった。
自分のことは徹底して卑下し、彼女のことはどんな些細なことでも口にすることを喜ぶ。
天使を語るような口ぶりで、彼は知らず知らずの内に、彼女への深い愛情を振り撒き、
自らの存在を烏滸の沙汰と蔑むようにして、自分への嫌悪感を常に剥き出しにしていた。それはまるで、咎人が神に許しを乞うているように思える光景だった。
純粋無垢な少女を敬い、讃え 愚かしい自分を容認し、戒め。
そうして彼は、彼女を ヨリコを愛することを許してほしいと訴えているようだった。
愛を叫べない故に喉を振り絞り、敵が多すぎる恋故に悲痛なまでに祈り。
気を抜けばすぐにでも壊れてしまうこの恋を 彼はどうにか繋ぎ止めていた。
「……でも、昼さんだって」
――報われてもいいのでは、と言いかけて、茶々子は止めた。
今の彼にとって、ヨリコが何事もなく日々を過ごせることが、何よりの救いであると、彼女は悟ったからだ。
ただ其処にいること事態が災厄であると見做されている、悲しい程の影響力を持ってしまった彼にとって、何も変わらないことが一番なのだ。
それは、妥協に違いないが。言及したところで、まだ彼は現状維持を望み続けるだろう。
この場にいる誰が言っても、彼が踏み出すことは恐らく、無い。
取り返しが付かない程壊れてしまうのなら、何も変わらずにいればいいと、今に甘んじている昼行灯を動かすことが出来るのは――
「……昼さんだって、嬉しいんでしょう?ヨリちゃんの進級」
「それは…勿論」
最底辺の位置で蹲っていた彼を掬い上げ、出不精までも治してしまったヨリコの他にいない。
良くも悪くも、昼行灯の行く末は、彼女が握っている。
見ている此方の肝が冷える程危なっかしく、小さな横風にも倒れてしまいそうだが。何故か、きっとどうにかなる、と思わせる。
そんな何かが、茶々子には見えていた。だからこそ、敢えて箴言することは止めた。
「だったら、素直に喜びましょうよぉ。ヨリちゃんも、お祝いしてもらえたら喜びますよ」
「………そう、でしょうか」
「えぇ、モチロン!」
どうにかならなかったその時は、此方がどうにかすれば、どうにかなる。
そんな不確か極まりない自信でも、茶々子は持っていたかった。
「あ、そうだ!ヨリちゃんが来たら、お祝いしてあげましょうよ!大げさかもしれないですけど、おめでたいからOKってことで!」
「……そうですね。今からペースをあげれば…出来ないことはないですね」
凍りついていた時間は長かったが、ようやく此処にも春の兆しは見えてきた。
重たく圧し掛かった暗雲も、僅かながら光が射し込むことを許してくれた。
それは何時閉ざされてしまうかも分からない、不安定な光だが。確実に、彼らの絶望を溶かしていくだろう。
「そーいう訳だから、サカナちゃん!今からしゃきっとお仕事してね!」
「は、はい!……よーし、僕頑張っちゃうぞ〜」
「そうだ、昼さん。私、パウンドケーキでも焼こうと思うんですけど、ちょーっと空けても大丈夫ですか?」
「もうすぐ薄紅や修治が来る頃でしょう。二人が来たら、即刻用意に取りかかってください」
「はぁーい。了解であります」
少しずつ、歩み寄るように。