モノツキ | ナノ
「……っと、もうこんな時間ですね」
昼行灯が壁の時計を見てそう言うと、ヨリコは「あっ」小さな声を出した。時計の短針は五を指していた。
相対性理論に則り、わずか十分のことように感じられた時間も終わりを迎える時がきていた。
「ご、ごめんなさい!長々とお邪魔してしまって…」
「いえ。久しぶりに、とても楽しい時間でした」
急いで立ち上がり、スカートを手早く直して頭を下げるヨリコに合わせ、昼行灯もゆっくりと立ち上がった。
楽しい時間というのはその終わりが惜しいものだが、それでも彼女をこれ以上留めていていい理由にはならない。
昼行灯が、彼女の見送りの姿勢に入るのに不思議と抵抗はなかった。
「わ、私も!昼さんのこと色々聞けて…その、ありがとうございました!」
ヨリコはもう一度ぺこりと頭を下げた。
結局、ヨリコが聞いてきたことといえば、日頃どんな暮らしをしているかや部屋の家具の話といった、本当にどうでもいいようなものばかりで、昼行灯が危惧していたような質問は一切こなかった。
それはヨリコが気を遣っていたから、という訳ではなく。ただただ成行き任せに質問していった結果だろう。
昼行灯が珍しく床に籠って考え込んだ意味もなく、今日という日は終わった。
「私…こないだも言った通り、全然昼さんのこと知らなくって。好きな食べ物も、趣味も、本当に些細なことだとは思うんです。でも…」
夕日に当てられているせいか、ヨリコの白い頬は緋色に染められていた。
それを抜きにしても、いつもより血色の良い彼女の頬はヨリコの心からの感謝の意と、込み上げる思いを現しているようだった。
ヨリコは上手く言葉を纏めようと、またあれこれと考えているようだったが。しばらくすると頭をぶんぶんと横に振った。
どうせ現しきれないのなら、ありのままを伝えよう。その決意が、ヨリコの顔に笑みを作った。
「昼さんのことが知れたこと、私の中ではすっごくすっごく、大きな進歩になったと思うんです!だから、今日ちゃんとこうしてお話出来て…本当に嬉しいんです」
理解など、されたこともなければされようとも思われなかった。
この呪われた身で、全てが自分を否定してくる中で、誰が自分を見てくれただろうか。
視線を掻い潜るようにしてしか生きていけないこの身を、誰もが目を背けたくなるこの異形の頭を、こんなにも真っ直ぐに見つめ、微笑みかけてくれる。
昼行灯の杞憂はそこで消えた。
抱いていた恐れがなくなった訳ではない。彼はまだ、終着点までの道のりの入口に立ったに過ぎない。
ただ、その先を進む細い光を、昼行灯は見付けた。
何処まで足掻こうと離れないこの深い世界の闇から、這い上がる為の光明を。
「…ヨリコさん、私は」
太陽を覆い隠す雲が、ふいに部屋の中に影を落とした。
硝子に陽が反射して眩しくないようにと、窓から外れて立っていた昼行灯の顔に、影が落ちた。
――そこで、ヨリコは眼を見開いた。
それはほんの一瞬、太陽が再び顔を出すまでの間だけ、ヨリコの両の眼を捉えて離さなかった。
あの日、見間違いとしていた雛色の髪に青灰色の瞳。
形の整った眉の間に小さな皺を寄せ、今にも泣きそうな顔をした、一人の男が 確かにそこにいた。
秒数にして一に足るかも分からない、本当に一瞬のことながら、ヨリコにはその時が長く感じられた。
スローモーションで開かれた唇は、その言葉を紡ぎだす前に消えていた。
もう見慣れた、あの硝子の中に溶け込んでいくように。
「……いつか、必ず。貴方に全てをお話しいたします」
昼行灯の声に、ヨリコははっと気を取り戻した。
夢の中に引きずり込まれたかのような感覚から彼女を呼び戻したのは、紛れもなく昼行灯の声だった。
いつになく穏やかで、優しい声色で。少し悲しそうな声だったが。確かにそれは、彼のものだった。
「それまで…少しだけ、時間をください。私に、覚悟が固まるその日まで…」
ゴトンゴトンと、遠くで電車が走る音が響く中。ヨリコはただ、立ち尽くしたようにして、彼の言葉に黙って頷くことしか出来ずにいた。