モノツキ | ナノ




「ヨリコくん!」


まだ二分ばかしの猶予を残して面会を終え、留置所の廊下を行くヨリコを、クロサワは呼び止めた。

暫く呆然としていて、ヨリコが退室してから追うまでに少しばかし時間を要した。
それ程までに、面会室で起きたことはクロサワには衝撃的で。
未だその余波に当てられたまま、クロサワは、僅かに陰の差した面持ちのヨリコに尋ねた。


「……よかったのか、あれで……。あれは、君のご両親の…………」

「……いいんです」


結局、ヨリコはインキに、罵声も怨言も掛けることはなかった。

五年前、理不尽に両親の命を奪われ、それから長らく孤独と悲しみに苦しめられていたというのに。
ヨリコは取り乱すこともなく、淡々としていた。

決して、両親のことまでも忘れることにした訳でも、インキの犯した罪を不問としている訳でもない。
今も彼女の心の中には、愛した父と母への焦がれるような想いがあり、それを奪い去ったインキへの恨めしさもある。

ただ、それを塗り潰す様々な感情が、ヨリコを酷く冷静にしていた。


「インキさんに言った通り……私じゃ、あの人をどうにかすることなんて出来ませんから」


どうにかする、というのは、そのままの意味だった。

何処にでもいるような、非力で無力な、有り触れた女子高校生であるヨリコが、
不世出の狂人であり、帝都を脅かす力を持ってしまっていたインキに出来ることなど限られている。

憎しみのままに手に掛けることも、壊れきった彼を改心させることも、人間に対する認識を変えさせることも、ヨリコには出来ない。
限界の浅い彼女に出来るのは、ほぼ一つだけと言ってもよかった。

それが唯一にして至高であり、最低の術であることを、ヨリコは自覚していた。故に、彼女は極めて平静に、クロサワに懺悔した。


「私……インキさんは、あんなになるまで人を恨まなきゃならないことがあったんだなって思いました」


開口一番告げられたその言葉に、クロサワは血の気が引く思いがした。


一体誰が、両親の仇に対しそんな感傷を抱けるというのか。

確かにインキは、特に理由のない理由で人から虐げられ、迫害され、壊れてしまった。その点に於いては、彼は被害者と言ってもいいだろう。
だが、それからの彼に同情の余地はない。多くの人間を巻き込み、この世界を引っくり返そうと加害者に転じたインキを、一体何人が憂いることが出来るというのか。

しかも、ヨリコはインキによって全てを奪われた身だ。
深く愛した両親を奪われていながら、どうして彼女は心の底から彼の有り様を憐れんでいられるのか。理解に苦しむクロサワを前に、ヨリコはその心の内を語った。


「実際に会ってみても、これまで出会った誰よりも……あの人の心は一番傷付いて、悲鳴を上げてるように見えました。
だから、私……出来ることなら、あの人を許したいと……そう、思いました」


ツキカゲで、初めてインキについて聞いた時。彼に抱いた感傷を、ヨリコは未だに持ち続けていた。
相手が親の仇と知って、理不尽に怒りを覚えても尚。ヨリコは、インキを可哀想な人だと、そう思っていた。

それは、両親のことを思えば非情なのではないかと言われておかしくない。しかし、彼女は安い同情心で、自身が苛まれる程の感情を抱えてはいなかった。


「でも、あの人がお父さんとお母さんをって思ったら、やっぱり許せそうになくって……。
インキさんの心の声を聞きたくても、あの人は何も話せる状態じゃなくて……。私には、何も、どうにも出来なくて……それが悔しくて、悲しくて、堪え切れなくて……」


ヨリコは、葛藤していた。
インキの壊れた、否、壊された心と、彼が両親の仇であるという事実の間で、彼女は押し潰されそうな程に迷っていた。

人間によって心をズタズタにされ、全てを狂わされたインキを憂いる気持ちと、それを抱くことで両親を裏切ってしまっているのではないかという自責の念。

前者など捨てて、恨みつらみを口にして、腹の底から声を出して彼を責め立てていたら、どれだけ楽になれていたことか。
例え罵声も糾弾も、何も届いちゃいないと分かっていても、インキをただのサンドバッグにしていれば、ヨリコは余計な痛みを負うことはなかっただろう。

それでも、ヨリコは最後まで、インキを否定することは出来ず。
結果、それが一番彼にとって残酷な仕打ちだと分かっていても、ヨリコは、彼のした行いを泡沫に変えることを選んでしまった。


「私がインキさんの立場だったら一番言われたくない言葉だったのに……私…………」


一目見た瞬間から、ヨリコは悟ってしまった。

インキとはどう足掻いても分かり合うことは不可能で、そんな彼に届く言葉は、あれしかなくて。
彼を許すことが出来ない自分は、もうこれ以上、彼を恨むことも憂いることも止めるしかないのだと。ヨリコは、そうしてインキに、最も手酷い形で報いてしまったのだ。


「………俺は、長年刑事をやって、これまでたくさんの犯罪者を見てきた。その倍以上、被害者やその遺族も…………」


クロサワは、かつて彼女のように、両親を理不尽に奪われた少年のことを思い出して、眉を顰めた。

彼は、抑え切れる訳もない激情に従い、自ら復讐の道へと歩みを進め、もう二度と戻れない程に穢れた。
それは、決して正しいこととは言えないが、致し方ないことだとクロサワは思っていた。

愛する家族を殺された者が報復を望み、罪に手を染めても、その胸中を思えば、責められることではない。
人として、心を持つものとして当然のことなのだからと、批難することなど出来やしない。
だから、ヨリコが望まずともインキに復仇したことも、悲しむべきことではないと、そう言える。

言える筈――だというのに。クロサワは、気にすることはないと、口にすることが、出来なかった。


「その中で、君は……俺が見てきた誰よりも強く、優しい人だ。
憎むべき相手を、苦しみながら、心を痛めながら……許したいと……救いたいと願うなんて、普通じゃなくても出来やしない」


ヨリコは、自分のしたことはインキにとって最悪の仕打ちであったと、そう悔いている。

だが、クロサワからすれば、あんな、いっそ悍ましい程に優しい言葉はなく。
あれをインキに告げたヨリコの想いを蔑ろにしてはならないと、クロサワは、彼女の選択を肯定した。


「罪を憎んで人を憎まず……よく聞く言葉だが、それを実際にやってみせることなんて、無理だ。罪を犯すのが人である以上……どんな理由があっても、恨まずにいられない。
でも君は、最後の最後まで、あいつ自身を責めたりしなかった。
何もかも君の心に閉じ込め、無かったことにしてしまうことが、あいつにとって何よりの絶望だと知りながら……それでも君は、あいつを否定しなかった。
俺は、あれ以上に優しい言葉はなかったと……そう思うよ」


過ぎたる優しさは、時に何よりも残酷だ。

ヨリコは、誰より透き通った心に、誰より汚れを受け入れて、救済と破壊を齎している。

傷付き、苦しむ者がいれば、それを憂いずにはいられない性を背負い、相手が本当に求めるものを与える為に、彼女は鬼にさえなってしまう。
その矛盾に自ら苦悩しても尚、他者の為に自己犠牲の道を選んでしまう。

クロサワは、未だ自身の無力さを嘆くヨリコを、心底気の毒に思った。


「……これで、よかったんでしょうか」

「それは、これから分かることさ」


彼女の優しさは、いつか必ず、自身を滅ぼす。

自分以外の何かを救う為に、ヨリコは人でさえなくなるとしても、その身を捧げてしまうだろう。
そんな時、彼女を、彼女が救いたかったものごとひっくるめて助けてくれる人間が、この世界に存在するのか――。

クロサワは、自分の言葉で少しばかし陰を薄めてくれたヨリコに、苦々しく笑い掛けた。


「送っていこうか?流石に疲れただろう?」

「いえ、大丈夫です。今日はアルバイトもお休みの日なので……」


それに応えるように、ヨリコもまた、ぎこちなく微笑んだ。

わざわざ今日の面会の為にあれこれ工面してくれた彼に、これ以上迷惑はかけられないと、ヨリコは努めて元気な振る舞いをしようとしていた。
その健気さに、クロサワがまた一層、眉間の皺を深くする中。ヨリコは腰を折って、ぺこりと頭を下げた。


「……ありがとうございました、クロサワ刑事」


いくつもの意味を含めたその言葉に、クロサワは今度こそ「気にすることはない」と言えた。

顔を上げ、最後にまたにっこりと笑んだヨリコには、もう殆ど、翳りは見えなかった。


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