モノツキ | ナノ



インキは、薬の効果か、心どころか魂此処に非ずというような様子で、宙を眺めていた。

実際、彼の眼が何処を見ているかなど分からないのだが。
それでも、ぐったりと傾いたプリンターから、空虚な視線が伸びているのを、ヨリコは感じた。


暫し、面会室を沈黙が押し潰し、時計がカチコチと規則的に動く音だけが、嫌によく響いた。

ヨリコに与えられた時間は、五分。たかが五分、たったこれだけ、とは言えない。
この僅かな時間を取る為に、クロサワだけでなく多くの人間がいらぬ労力を使ってくれたのだ。

恐らくもう二度とない。最悪の犯罪者インキと対話が許される最後の五分間。
その貴重な時間を徒に浪費してしまうのも、致し方ない。
当事者ではないクロサワや、ガラス向こうの警察官達でさえ、とても落ち着けなかった。

指先さえ動かせないように拘束された、悪意のけだもの。
それに対し、ヨリコのようなただの少女が、何を話そうというのか。

思わず息を呑んで一同が見守る中。呼吸を整え、これからインキに剥ける言葉を固めたヨリコが、そっと口を開いた。


「……初めまして、って言うのも、少し違う気がします。けど、貴方からしたら、私は、本当に初めましてですよね」


酷く、穏やかな声だった。

これから絵本の読み聞かせをするかのような、耳触りのいい、柔らかな声。
あれを前にして、どうしてそんな声が出せるのかとクロサワ達が眼を見開く中。ヨリコはもう一度、深く息を吸って、吐いて、呑み込んで、続けた。


「私、ホシムラ・ヨリコといいます。私は五年前……貴方が、帝都警察の足止めに起こした衝突事故に巻き込まれた”人間”です」


ただ其処にいたという理由で死んだ人間の姓や、その子供の名前など、インキは覚えてはいないだろう。無論、ヨリコはそれを承知の上で、彼に名乗った。
名前を告げたところで、意味などないだろう。それでも、此処で彼と最後の対話をするにあたり、ヨリコはどうしても、インキに名前を知らせたかった。

そんな彼女の意図など知る由もないインキだが――ぐったりと傾けていた頭から、キ、キ、キ、と音を立てながら、彼は一枚、紙を吐き出した。


「……人間、」


はらり。拘束台の足元に、紙が落ちる。

大きさに見合わぬ、小さな文字がぽつり印刷された紙は床を滑り。その動きが完全に止まるまでの間、インキの見えない眼は、確かにガラス越しのヨリコを見つめていた。

それはまるで、獣が檻の向こうにいる獲物に気が付いたかのようで。
ふいにぞわりと寒気だったクロサワ達が鳥肌を立てると同時に、インキの頭のプリンターは凄まじい起動音を上げながら、大量の紙を吐き出した。


「人間だ、人間だ、にんげ、人間人間人間!!人間!!!人間!!!!」


吐き出した血を指につけて書き殴ったような字が、でかでかと印刷された紙が、インキの喚声に合わせて止め処なく溢れる。

先程までの静けさが嘘のように騒然とした面会室には、どよめきが広がり。
壁に凭れて静観していたクロサワは慌てて向こうの警察官達に、インキの暴走を止めさせんと叫んだ。


「おい!鎮静剤切れてるんじゃないのか?!」

「い、いえ!まだそんな時間じゃ……」

「殺させろ!!人間……人間をォお!!殺させろォ!!!」


まるで、獣の咆哮であった。
首まで固められているというのに喉を限界まで逸らし、身を捩り、拘束具を軋らせ。暴れるインキに、クロサワは思わず壁を殴った。

だから、ヨリコを此処に入れたくなかったのだ。

インキは、もうどうしようもない程に壊れている。
人間を見れば殺意を抱かずにはいられず、一度その激情が顔を出せば、薬を使わなければ大人しくなりやしない。
これはもう、まともな話が出来る人ではない。

両親の仇がこんなものだと痛感してしまえば、いよいよやり場のない感情に、ヨリコはまた一層深く傷付くだろう。


「いいから黙らせろ!!ヨリコくん、やっぱりこいつは――」


クロサワは、これ以上は無理だと判断し、あちら側の警官達にインキの鎮静化を要請し、ヨリコにも撤退を促そうとした。

だが、ヨリコはまたも、彼の煩慮を介すことなく。
眼も当てられない程に暴れ狂うインキを真っ直ぐに見つめたまま、混沌とした面会室に声を落とした。


「私、あの事故で、両親を失いました」


クロサワと、ガラス向こうの警官達は、それでぴたりと静止した。


それはまるで、磨き抜かれたガラスのように、冷たさすら感ぜられる程、澄んだ声だった。

この場で騒ぎ立て、これを遮ることなどあってはならない。
ヨリコの声は、狼狽する脳にそう悟らせ、反射的に彼等の動きを止めさせた。

彼女は、そうしようとなど、思っていなかっただろう。
ただ、どれだけこの場が騒ぎに満ち、怒号が飛び交い、銃声までもが鳴り響いたとしても、インキに告げたい言葉があると、ヨリコは口を開いただけだった。

その揺るがぬ一心が、クロサワ達の当惑を切り裂いた。だが、それでもまだ、インキの狂騒は止まらない。


「とっても大好きだった、お父さんとお母さんが…偶然、ただ其処にいたから殺されてしまったことを……あれは、事故でさえなかったことを、つい最近知りました」

「殺す!!殺す殺す殺す!!殺させろ!!こ、殺、殺す!!!!殺す!!」

「知った時は、どうして二人がって……すごく、悔しかったですし、今も、そうです。けど…どれだけ悔しくても、私には、貴方をどうにかすることは出来ません」


依然紙を吐き出し続け、聞くに堪えない声で喚き散らすインキに、ヨリコは拳を握った。

膝の上で握り固めたその小さな手で、彼女は何を潰したのか。
クロサワが、もうこれ以上はと無意識に手を伸ばした刹那。ヨリコは少しだけ眼を伏せ、最後の覚悟を決めたかのようにまた、インキを見た。


「貴方を責めても言葉は届かないし、こんなガラス越しの状態じゃ、手だって届かないです。それに……それが出来たとしても、貴方の心には、何も届かないし、響かないです」


最初から、分かっていたことだった。

とうの昔に壊れたインキに、何を言ったところで無駄なことも。
彼に手が届いたところで、その首を絞めることは出来ず、渾身の力を込めて殴りつけたところで、虚しいだけということも。

だというのに、どうしてヨリコは、此処に来たのか。
こんなものを前にしてまで、インキに言いたかったことは、こんな分かり切ったことなのか――。


時計の短針がカタンと動く。

それと同時に告げられたヨリコの言葉に、面会室は、時が止まったかのように完全に沈黙した。


「だから、私――貴方のことを考えるのは、もう止めます」


あれだけ暴れていたインキが、白紙一枚吐き出して、ぴくりとも動かなくなった。

鎮静剤は、新たに打たれてはいない。今になって、先刻打ったものの効果がぶり返してきた訳でもない。
インキは、ヨリコの言葉を耳にして、瞬間全てを忘れて、呆然としていたのだ。


「恨むことも、憎むことも、嘆くことも、怒ることも……全部。貴方についてのことは何も、考えないようにします。これで、貴方について思うのも最後にします」


喉が張り裂けそうな程に喚いていても、インキは、ヨリコやクロサワ達の声は聞こえていた。

その存在を認知するや否や激昂し、湧き上がる殺意に踊らされる程、人間を憎んでいるが故に。自分に向けられる言葉を、インキは全て拾っていた。


かつて耳を塞げど逃れられなかった理由なき悪罵を、人間を殺す原動力に転換する。そんな術を、彼は自然と身に付けていた。

彼の耳は、人間から差し向けられる敵意を拾い、憎悪に油を注ぐ為、本人の意識とは関係なく全ての言葉を聞き取る。
だが、それが彼の激情を煽る以外の方に作用することなど、これまでなかった。


ヨリコが悟ったように、インキの崩壊した心に届く言葉などない。
同情も、慰めも、糾弾も、命乞いも、説得も、彼にとっては恨めしい人間の戯言で、怨嗟の糧にしかならない筈だった。

だが、ヨリコの言葉は、その回路を突き破り、インキの脳裏に感情の嵐を起こさせた。


荒れ狂い、渦巻くそれらは、行く宛てを失った怒りと憎悪で出来ている。

しかし、一瞬の内にして再び晴れた頭の中に、忽然と残されたのは――


「……では、私は、これで失礼します」


何より恨めしい人間の少女によって与えられた、圧倒的敗北感であった。


「う、が……あ゛ぁああああああああああああ!!!」

「お、おい!!」

「鎮静剤持ってこい!もう一回打たないとダメだ!!」


ついに最後まで恨み言の一つも言わず、深々とお辞儀をして面会室を後にした彼女のことを、死刑執行の日、命が絶たれる最期の刹那まで、インキは忘れることが出来なかった。

彼女が告げた言葉は、人生の全てを捧げて人間を脅かしてきたインキにとって、これ以上とない屈辱で、絶望であった。

己の首を絞める程、全身全霊の憎悪を向けた者に、無かったものとして扱われ、爪痕すら残せず散る。
それは、彼がこれまでしてきたことの何もかもが無駄であったということと同義であり、インキは、立ち去るヨリコを引き止めんとこれまで以上にもがき出した。


もっと、より色濃い悪意で、目を逸らしても苛まれる程の苦痛を与えなければ。そうしなければ自分は、ドン底のまま死に至る。

ただただそれが恐ろしく、インキは面会室の扉が完全に閉じても尚、叫び続けた。
例えもう一度彼女に噛み付けたとしても、決して勝てはしないと分かっていながらも。

インキは、果てしない失意から逃れんと、救いを求めるように声を上げた。


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