モノツキ | ナノ
帝都暦二百三十七年、十月四日。
学校に向かおうとした途中。並木道で泣いている子供に出会った。
多分、幼稚園児くらいだろう。とにかく小さい、女の子がそこで蹲って泣いていた。
「ふぐ、う……えっく……えぇぇん……」
「…………」
正直、無視しようと思った。
どうにも子供を相手にするのは苦手というか、殆ど年下と接したことがなかったからというのもある。
だがそれ以上に、俺は泣いている子供が抱えているだろう厄介事に、関わりたくないと思った。
何で泣いているのかは分からないが、子供が、それも五つにもなっていないような子が一人で泣いているという状況は、非常に面倒な匂いがする。
親が近くにいる気配はなく、この子供は迷子か何かなのだろうと思った。
迷子ならまだいい。それ以上の問題をこの子が抱えている可能性だってあるし、俺が首を突っ込むまでもなく解決するような、くだらない事情だったということもある。
だから、俺はこの子を放っておこうと。そう思ったのだけれど。
「……君、なんで泣いてるの」
「…ひっく……うぅ…」
暫く見ていても、ずーっと一人で泣き続けている子を見たら、なんだか放っておけなくなってしまって。気が付いたら、俺は子供に手を伸ばしていた。
近付いて声を掛けると、女の子は涙でぐっちゃぐちゃの顏を上げてきたので、俺は取り敢えずハンカチで顔を拭いてあげることにした。
正直、この顔のままくっつかれとかしたら困ったので、手早く綺麗にしてやったのだが。女の子はまだぐしぐしと泣いた。
俺は、やっぱり関わるんじゃなかったと思ったけれど。女の子の手が俺の制服のズボンを掴んでしまっていたので、観念することにした。
「…迷子?お父さんか、お母さんは?」
「……う、っく…パパ、おしごとで……ママは…おうち」
宥めるように頭を撫でながら聞くと、女の子は鼻を啜りながら、どうにか答えてきた。
父親が仕事で母親が家ということは、どういうことか。まだよく分からないので、取り敢えずまだいくつか質問することにした。
「…じゃあ、なんで君は此処に一人で?」
「……りっちゃんね、パパのわすれものとどけてあげようとしたの……」
聞いてもいないのだが、どうやらこの女の子はりっちゃんというらしい。まぁ、それが名前じゃないっていうのは分かるけど。多分リから始まる名前なんだろう。
それはさておき、ここでようやくこの女の子が、こんなところで一人でいる理由が見えてきた。
「パパのかいしゃ、いったことあるから…だいじょぶっておもったの……でも、バスおりたらわからなくなっちゃって………」
「……………」
そう言って、女の子はまた大きな眼をうるうるとさせて、しゃくり上げ出した。
推測だが、多分この子は母親に黙って父親の忘れ物を届けに行こうとしたのだろう。すごいね、偉いねと褒めてもらいたいが為に、だ。
前に母親と共に父親の職場に行ったことがあって、それを覚えているから大丈夫だろうと思ったのだろうけど、園児が一人、バスを使って目的地まで行ける筈もなく。
降りる停留所を間違えたのか、乗る路線を間違えたのか。何にせよ、見事に迷子になって途方に暮れてしまい、今に至るのだろう。
俺はまた、見事に大変なものに手を差し伸べてしまったと軽く後悔しながらも、この子をどうにかしなくてはと考えた。
「…お父さんの会社の名前は分かる?」
取り敢えず落ち着かせようと、俺は女の子を抱っこしてあやすことにした。
軽く背中を叩きながら、安心させようと努めると、女の子はしわくちゃにしていた顔から、ゆるゆると力を抜いていった。
色んな習い事をしていながら、子供のあやし方を習ったことはなかったのだけれど、取り敢えず成功したようでよかったと思った俺に、女の子はこくんと頷いて答えた。
「あーとほーむけんちくじむしょ……」
「……ART HOME建築事務所、ね」
女の子を抱っこしたまま、俺は制服のポケットから携帯を開いて、今し方聞いた会社の名前を検索した。
聞いたことのある会社名だったので、事務所の所在を探し出すのに殆ど時間は掛からなかった。
正直、女の子が何も分からなかったら、近くの交番に放り込もうと思ったのだけれど。
目的地がはっきり分かったことと、女の子が必死にしがみ付いてきたことから、俺はある決心をしていた。
「そんなに遠い場所じゃないから、俺が連れていってあげるよ」
「……おにーちゃんが?」
「うん」
ぱぁあっと顔を綻ばせるこの女の子を、父親のとこまで届けてやることで、今日の時間を潰す決心を。
殆ど変化のない毎日に、突然舞い降りたこのイレギュラーは、俺に害をなさないと分かった瞬間から、いい時間浪費の材料へとなった。
歩いておよそ一時間先にある、建築会社。其処までこの迷子を送り届ける時間潰しは、俺に何かしらの達成感を与えてくれるかもしれない。
そんな、優しさなど微塵もない打算だらけの考えで、俺はりっちゃんと名乗る女の子の手を取った。
「おにーちゃん、みちわかるの?」
「携帯に地図があるから。ちょっと歩くけど、頑張って」
「うん!りっちゃんがんばる!」
普段年上とばかり接しているせいか、これ程小さな子供といるのは、実に新鮮だった。
俺が気まぐれに助け船を出しているとも知らず、すっかり全幅の信頼を寄せている女の子の、なんて愚かなことか。
途中で置き去りにされたらどんな反応をするのだろうとか不誠実極まりないことを考えながら、俺は携帯の地図を見ながら、女の子の手を引く。
が、問題はすぐに起きた。
「あぷっ!」
「……………」
「う、うぅ……いたいよぉぉ……えぇぇん……」
こてん!と勢いよく転んだかと思えば、さっきまでにっこにこしていた女の子がまた泣き出した。
どうやら、俺の歩幅に合わせようと小走りして、躓いたらしい。
俺は、子供って思っていた以上に面倒だと盛大に溜め息を吐きたくなるのをぐっと堪えながら、女の子をまた抱っこした。
「…痛かった?」
「うん…いたかったぁぁ……」
もう、ずっとこうやって抱えていた方が楽なんじゃないかと思ったが、流石に一時間もこうしているのは無理だ。
俺は適当に女の子を宥め、スンスン鼻を啜る音が止んだ頃に地面に下ろし、今度は転ばせないようにと歩幅を狭めて歩くことを意識した。
そんな俺に、またもや問題が降りかかってきた。
「…おにーちゃん、りっちゃんのどかわいちゃった……」
「……………」
いきなり立ち止まったから何かと思えば、女の子は喉が渇いたと言い出した。
俺は、迷子になったとこを助けてもらってるのに図々しい…と思いながらも、子供だからと自分に言い聞かせて、近くの自販機に立ち寄ることにした。
一応財布は持ち歩いているので、ジュースの一つや二つ問題なく買うことが出来る。
「どれがいい?」
「んっとね……これ!」
そしてそこでまた、女の子は俺の神経を逆撫でる行動に出た。喉が渇いたと言いながら、女の子は缶おしるこを選んだのである。
俺は一体何を考えているんだと、ボタンを押させる為にと抱っこした女の子を下ろして、自分をクールダウンさせる為に紅茶を買った。
しかし、買ったものを飲むべく座ったベンチでも、女の子は止まらない。
「…おにーちゃん、りっちゃんのとこーかんして……?」
缶を握り潰したくなる衝動を抑え、俺は女の子に紅茶を差し出し、代わりに缶おしるこをふんだくるように取った。
自分で飲みたいって言っておきながらこれか、と俺は缶おしるこをずるずると啜る。
そんな俺の横で、女の子は足をぱたぱたとさせながら、おいしそうにこくこくと紅茶を飲んでいる。
人から取った紅茶はそんなに美味しいか、と思いながら見ていると、缶から口を離した女の子は、「はい!」と俺に紅茶の缶を差し出してきた。
おい、まさかまた交換しろって言うのかと流石に苛立ちを抑え切れなくなりそうな中、女の子はにぱっと笑って。
「いっしょにのむとおいしーね、おにーちゃん!」
と、思ってもいなかったことを言ってきた。
「ママとね、ジュースのむときもこうするの!りっちゃんのと、ママの、いっしょにのむとおいしいの!」
「…………」
そんなこと考えてたのか、と面食らう俺の手からおしるこ缶を取ると、女の子はふーふー慎重に冷ましながら、おしるこを飲み出した。
そしてまた、先程のようにおしるこ缶を手渡して、紅茶に口をつける女の子を見て。俺はなんとも言えない面持ちになりながら、残ったおしるこをぐっと飲み干した。
あぁ、確かに。思えば初めて飲んだけれど、おしるこって美味いものだなと、そう思った。