モノツキ | ナノ




アマガハラ・テルヒサであった頃ですら、彼に尊ぶべき思い出はなかった。

しかし、それでも彼がアルバムや日記といった、時を保持するものを持っていたのは、彼が唯一心を許していた母――アマガハラ・ユウコの影響だった。


「どうしたの、テルヒサ。今日は元気がないのね」


アマガハラ・ユウコは、とても美しい人であった。

見た目も心も。接する者全てを照らすような、まさしく女神と比喩するに相応しい。そんな女性が、昼行灯ことテルヒサの母親であり、アマテラス・カンパニー社長、アマガハラ・テルヨシの妻であった。


ユウコはアマテラスにこそ劣れど、立派な財閥を有するヒノバシ家の令嬢で、テルヨシとは互いの企業の為に婚姻を結んだ許嫁であった。
相手を選ぶ権利すら与えられず、親と企業の都合でテルヨシに嫁ぎ、アマテラスを継ぐ男子を産むことを義務付けられていたユウコだが、彼女は生まれつき体が弱いという大きな欠点があり。一度病床に伏せ切った時、テルヨシの元に嫁ぐのは彼女の妹に変更するべきという話すら持ち上がった。

ところが。若きテルヨシは、ユウコの内外問わず洗練された美しさに魅入られ、彼女以外との婚姻を認められず。
またユウコも、体の弱い自分を受け入れてくれたテルヨシに強く惹かれ、彼のもとに嫁ぐことを心から望んだ。

そうして夫婦となった二人に、運命は残酷な二つの刃を打ち立てた。


一つは、母子共に安全が保障されない身であるユウコが、決死の覚悟で産んだ第一子が女子であったこと。

二つは、その数年後に身籠った念願の男子を産んだ影響で、ユウコの体が益々弱ったことである。


「……メイドから聞いたんだ。母様の病気が、とても悪くなってるって………」

「あら…聞いちゃったの」


母が全てを懸けて出産に挑み、この世に生を受けたテルヒサが七歳になる頃。
ユウコは年中入退院を繰り返し、退院しても自室のベッドから殆ど動くことが出来なくなっていた。

手足は見るも無残な程に痩せ細り、艶やかだった髪も水分が抜け、顔も窶れてしまい。誰しもが息を呑む程に美しかった彼女は、すっかりみすぼらしくなってしまっていた。


「ぼく、いやだよ。母様がいなくなったら、やだよぉ……」


そんな痛ましい姿でも、幼いテルヒサにとって母は何よりも美しく、尊ばれる存在であった。

許される限りの時間、テルヒサは母のもとで過ごし。彼女の手に触れ、声を聞き。そうして過ごしていたのだが。
そう出来る時間も、もう長くはないことを、テルヒサは知ってしまった。


「…母様がいないと、ぼく…ひとりぼっちになっちゃう……ぼくを、おいていかないで…」

「テルヒサ……」


ぐしぐしと泣くテルヒサが、母との離別をこうも嘆くのには理由があった。

待望の跡継ぎとして生まれてきたテルヒサは、アマテラスという巨大過ぎる枷に幼い頃から苛まれていた。


勉学から作法、教養に至るまで、父はテルヒサに厳しく英才教育を施し、甘えや妥協を許してはくれなかった。

自分よりも丁重に扱われる弟に、多少なりコンプレックスを抱いていた姉ヒナミは、彼に対抗心めいたものを抱いており、容易に近寄れる存在ではなかった。

他の親族もまた、テルヒサを子供らしくは扱ってくれず。外部の大人達にしても、彼を見る目は明らかに普通のもととは違っていた。

挙句、自分と変わらない子供ですら、テルヒサの持つ地位を前に、距離を置いてしまっていて。
テルヒサは幼いながらに、孤独の味を知ってしまっていた。


そんな中で唯一、彼をただの子供として扱ってくれたのは、母ユウコだけであった。

ユウコはテルヒサが泣けば、父のように叱り付けるのではなく、優しく頭を撫でてくれた。

ユウコはテルヒサが構ってほしいと言えば、姉のように他にやるべきことがあると流すのではなく、こっちにおいでと腕を広げてくれた。


ユウコは、テルヒサが人に求めていたことを、全て叶えてくれた。
当たり前のように甘え、当たり前のように話し、当たり前のように近くにいることを、彼女だけは許してくれた。

そんな彼女は、テルヒサにとって最大にしてただ一つの心の拠り所で。ユウコの消失は、テルヒサにとって脅威であり、絶望であった。


だから、テルヒサはいかないでくれとユウコに縋り付いた。

頼る宛てのない自分を置き去りにしないでくれ、一人にしないでくれと。まだ七つの子供は、おいおいと泣いた。


「……大丈夫よ、テルヒサ」


そんな哀れな息子に、ユウコは深い悲しみを押し殺して、微笑み掛けた。


大き過ぎる期待や、周囲の欲望により歪まされてしまいつつある息子を、遠からず置いて逝ってしまう。

その無念を堪えて、ユウコは彼の不安を溶かすべく、痩せ細った顔で笑った。


「貴方は、皆に祝福されて生まれてきた子だもの……決して、ひとりぼっちになんかならないわ」

「でも、」

「いい、よく聞いて…テルヒサ」


えぐえぐと咽び泣くテルヒサの手を両手で、弱々しくも確かに握り。ユウコは絵本を読み聞かせる時のような声色で、優しく言葉を紡いだ。


「貴方の傍にいてくれる人が…この世界には必ずいるわ。だから、私がいなくなっても…絶対に大丈夫。貴方はきっと……素晴らしい人達に出会うことが出来る」


命を賭して生んだ我が子の成長を見守ることも、彼が今のように悲しみに暮れる時に傍にいてやることも叶わないことを悔やみ、嘆くよりも。
ユウコはこの刹那を、彼の胸に刻むことにした。

病に蝕まれようとも屈することなく、終わりが見えていようとも別の方角にある希望を捨てない。そんな自分の姿を、彼が今後の導に出来るようにと。

ユウコは涙を零すことなく、テルヒサへ言葉を遺した。


「だから、強く生きてね。テルヒサ」





それから間もなく、ユウコはこの世を去った。

ひとりぼっちになってしまったテルヒサに遺されたのは、完全無欠の美しさを誇っていた頃の母の写真と、彼女が生前授けてくれた温もりと、遺品の数々だけであった。

それでも十分だと思えたのは、母が自分に宛てた言葉の力があったからだろうと、テルヒサは思った。


その後、テルヒサは厳しさを増す父の教育や、姉との微妙にぎこちない関係、周囲の目にも耐え忍ぶ日々を過ごした。
母の言った通り、彼女の代わりとなって自分を救ってくれる人間が、必ず現れるだろうと信じて。

テルヒサは健気に、懸命に、一日を乗り越えていた。


だが、そう簡単に救いの手は差し伸べられることはなかった。


「「お帰りなさいませ、テルヒサ様」」

「……あぁ、ただいま」


テルヒサは、結局孤独なままに思春期を迎えてしまった。

母という大きな寄る辺を亡くし、それでも必死に歩んできた幼年期の影響か。彼はすっかり達観した少年へと成長してしまった。


社会というものを知り尽くし、人間というのがどういうものかを理解し、そんな環境の中で自分がどうあるべきなのかを見据えてしまい。

中学生にして現実というものに精通しきってしまったテルヒサは、母の願いも虚しく。独りと連れ添うことを当然とした人間へと変貌してしまっていた。


「テルヒサ様、最近すっかり大人になられたわよねぇ」

「声変わりされてから、こう…色っぽくなられたっていうか、ねー!」

「可愛らしい顔立ちされてたけど、近頃は男らしくなって二枚目が際立ってきたし」


人に縋り付くことを止め、人を利用することを覚えてしまい。

その為に自分が何をすればいいのかも掌握しきっている彼は、立ち込める虚しさを晴らす術を身に着けて、日々擦り減っていく心を満たしていた。


「……もう、行っていい。仕事に、戻ってくれ」

「はい、テルヒサ様ぁ」


媚びた眼をした人間を引き入れるのは、地位にも容姿にも恵まれた彼にとって容易かった。

ただ一声掛ければメイドであろうと、同級生であろうと、財界に顔を出すような人間であろうとも、簡単に手に落ちてくれた。

それを適当に貪って、テルヒサはただ心が削られていく毎日を、食い繋いでいた。


体を満たして、心を潤した気になって。恵まれた自分と肌を合わせたことに高揚した女達を見送って。
テルヒサは、乱れた服を直しながら考えた。

今の自分は、誰かを手に入れることはとても容易い。この名前と顔があれば、誰もが喜んで此方に向かって、尻尾を振ってくる。
だが、その星の数程いる人間の中で、自分が求めている人間は一人としていないのだ、と。

テルヒサは気怠さの残る体をベッドに沈め、天井を見詰めながら、また当てが外れたと溜め息を吐いた。


十五歳になる頃、テルヒサの周りには多くの人間がいた。家にも学校にも、彼を取り巻く人間は数えるのが億劫になる程にいた。

その名前のお零れに肖ろうとする者、端正な容姿に魅せられてきた者、何事にも優秀である才能に期待を寄せる者。
それらを幾ら掻き分けてみても、テルヒサが望む者は現れなかった。

母のように、テルヒサが求めるように、ごく当たり前のように接してくれる人間は、ついに現れることはなかったのだ。


友人としている者にも、恋人としている者にも、教師としている者にも。誰一人として、テルヒサの孤独と寂寥を埋めることは出来なかった。

母の言葉を信じ、新たな自分の理解者を求め、その人が来るようにと常に人当たりの良い優等生を演じてきたテルヒサであったが。
これだけ試しても駄目ならば、もう自分に残されているのは、こうして心以外を満たす他にないのだろう。

そう痛感してしまったテルヒサは、いつも部屋で致す前に伏せている母の遺影が入った写真立てを直して、またやる瀬ない日々に、薄い期待をすることを誓って眠りについていたのであった。


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