好きだけど
10
あれから数週間が経つ。
依然、なまえと松田は殆ど会話をしないままだ。
あの訓練後暫くは、再び『マドンナちゃんと松田はやはりトクベツな関係だ』と騒がれていたが、それもスグになくなった。
前回噂が経った時は速攻否定していたマドンナちゃんが、困ったように笑うだけだったから。
否定も肯定もせずに、ただ黙って眉を下げて笑うだけ。
美しくも儚い微笑みは、聞いた人間が悪いことをしているような気分にさせた。
なので、野次馬たちは『慈悲深いマドンナちゃんは、怪我を負った松田を見て、居てもたってもいられなくなっただけなのだ』と無理矢理納得するしか無かったのだ。
渦中の二人が、あれ以来一言も会話を交わしていない。というのが決定打となり、いつしか噂話はモヤとなって消えたのだ。
「…あともう少し」
なまえは資料室で、二つ返事で受けた雑用をこなしていた。乱雑に積まれた資料を年代順に並べ替えるだけの単純な作業だ。
ここ最近のなまえは、率先して雑用を引き受けていた。
何かに没頭しないといらないことを考えてしまいそうだから。
何事もなかったかのような日常が戻っただけなのに。
ただ、少しだけ。卒業が近づく寂しさと、空っぽの虚しさに支配されているのだ。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
少しだけ期待して振り返る。そこにいたのは降谷だった。
「ごめん、驚かせちゃったかな」
「ううん、大丈夫。何か探し物?」
「…そうだな。探してた」
「そっか」
「君を」
降谷の言葉に、驚いて視線を上げる。
どこか思い詰めた表情の降谷と目が合った。
「ダメ元で言ってもいいかな」
「なあに?」
首を傾げて続きを促す。
降谷は、そんな彼女を真っ直ぐに見つめて。
「君のことが好きなんだ」
ストレートな愛の言葉を囁いた。
なまえはパチ…と大きな目を瞬かせて、「ァ、私いま告白された?」と気づく。
それ程、降谷から伝えられた言葉は、誠実で、自然で、直球だったから。
「…降谷くんは、すごいね」
大きく息を吐いた。
学年首席で、何でも出来てしまう彼は、なまえの憧れだった。
結局入学してから一回も適わなかったな。なんて考えて、少しだけ笑みが溢れた。
私にはできないことを軽々やってのけてしまうんだもの。
座学も、実技も、どんなに頑張っても彼には追いつけなかった。
自分の想いを伝えることも、私にはできないのに。
でも、自分を真っ直ぐ見つめる降谷の手が、少しだけ震えているのに気づく。
あ、降谷くんでも緊張するんだ。なんて、他人事みたいに思って、また笑みが溢れた。
そうだよね。自分の気持ちを伝えるのって、緊張するよね。怖いよね。
分かるよ。
「ありがとう。…でも、ごめんね。降谷くんの気持ちには応えられない」
──好きなひとがいるの。
ハッキリとそう告げた。
はじめて口にした自分の気持ちは、同時に頭に浮かんだ男の姿と共に、驚く程にスッと自分の中に入ってきた。
そうなの。私、好きなひとがいるの。
きっと報われないけれど。報われたいとも、思わないけれど。
「知ってる。松田だろう?」
「え、」
少しだけ寂しそうな顔をする降谷に、女は驚いて口を開けた。
「どうしてそう思うの」
「見てれば分かるさ」
降谷は蒼色の瞳を細めて笑った。
──ずっと君を見てきたんだ。気が付かないわけがないだろう。
降谷の言葉に、なまえは再び目を瞬かせた。
ずっと伊達のことが好きだった。
でも、彼にフラれた後、案外すっきりと立ち直れたのもまた事実。
それはきっと、何があっても傍で支えてくれた人がいたから。
その人は、──松田は。
頑張れ、とひたむきに応援してくれた。
諦めんな、と強く背中を押してくれた。
思い返せば、彼は何度も自分を救ってくれていた。
彼は、ウジウジする私の話を根気強く聞いてくれた。
酔っ払いに囲まれてるのを助けてくれたのも彼だったし、涙を流す自分を慰めてくれたのも、彼だったのだ。
自分の心の真ん中には。
いつのまにか、伊達ではなく松田が立っていたのだ。
「…アイツには内緒ね」
女は照れたようにそう言った。
貼り付けたマドンナちゃん≠フ仮面を脱ぎ捨てた、降谷が初めて見る笑顔だった。
「伝えないのか?」
「うん、散々迷惑かけちゃったから。これ以上、困らせたくないの」
「…そう、か」
漸く気づいた気持ちに、女は蓋をすることにした。
△▽
「松田。ちょっといいか」
「何だよゼロ」
資料室を後にした降谷が向かったのは、松田の自室だった。
部屋の主──松田は、ラフな紺色のスウェットでベッドに横になりながら、ボーッとスマホを弄っていた。
そろそろ風呂でも行くか。でもダルしもうちょいゴロゴロしよ…あーでもタバコ吸いてぇな…とモダモダしていた時である。
「またどこかで自主訓練でもしてたのか?」
まだ訓練着を着たままの降谷に、ベッドから身体を起こしながら聞いた。
「いや?」
「あっそ」
それで、何の用だよ。目で訴える松田に、降谷は少しだけ肩を竦めると。
「以前、松田に言ったことがあっただろう?」
「主語を使えって」
「好きな人について」
「…あァ、そのこと」
松田は小さく舌打ちをすると、ガシガシと癖毛を混ぜっ返した。
それで、ソレがなんだよ。続きを促した松田に、降谷は「お前には言っとくべきだと思って」と前置きをしてから。
「告白した」
「ハァ!?」
「で、キッパリとフラれた」
「……おお、」
何が「おお」だよ。心の中でツッコんだ。
教科書を読み上げるような口調で淡々と言ってのけた降谷は、満足したかのように息を吐くと、松田に背を向けて部屋を出ようとした。
「オイ、待てよゼロ」
「まだ何か?」
「何かって…そりゃあ…」
慌ててベッドから立ち上がって、自分より少しだけ低い位置にある肩を掴む。
鬱陶しそうに自分を見上げる蒼色に、少しだけ怯んだ。
「な、何でソレを、俺に言うんだよ」
「宣戦布告したからな。ケジメだよ」
それと、次はお前の番だと言いに来たんだ。
降谷はそう言って、正面から松田を見据えた。
「あの時松田は僕に、俺は別にアイツのことなんか≠ニ言った」
「…そうだっけ」
「今は?」
降谷の刺すような視線に、松田は再び舌打ちを零してイライラしたように目を閉じた。
脳内を占めるのは、忙しなく表情を動かす女の姿。
赤くなったり青くなったり、そそっかしくて仕方ない。
「…好きだけど。文句あっか」
怒ったような表情で告げた松田をしばらく睨んだ降谷は。
「…そりゃ、僕じゃ勝てないよな」
小さく呟いて笑った。
完敗だよ。あの子を思う気持ちでは負けないと思っていたけれど、そんなことはなかった。
だって僕は、彼女を想ってそんなに苦しそうな顔はできないのだから。
「は? 何がだよ」
「いいや? 何でもないよ。…それより、ちゃんとソレ、彼女に伝えろよ」
「イヤ俺は、」
「いいから。漢見せろって」
最後にドン、と強めに松田の胸板を殴ると「おやすみ」と今度こそ松田の部屋を後にした。
「意味がわからん…痛えし」
たった一人部屋に残された松田は、降谷に殴られた胸を抑えながら途方に暮れるのだった。
△▽
「最近元気なくない?」
「そうかな」
なまえの部屋で、廣瀬はダラダラ寝転びながらファッション雑誌を捲った。
「ア、この服かわいい。今度買お」とポストイットを貼る。
毎回気に入った服に印をつけるのだが、買った試しは未だにない。
ポストイットを貼っただけで満足する女なのだ。
なまえはハリボーのグミをモニモニ摘みながら「どうしてそう思うの」と問うた。
伊達に相応しい人間になりたくて被り始めた仮面だったが、既にマドンナちゃん≠ニいう仮面は素の顔にこびりついてしまっていた。
十年近く付けている仮面だ。
外ヅラは素の顔とドロドロに溶け合ってしまっていて、最早どれが外ヅラなのか分からなくなっていた。
むしろ、松田の前で堂々と素を出せていたのが奇跡なのだ。
裏を返せば、松田の前こそが、マドンナちゃんが自然体で振る舞える場所だったのだが。
「んー、何となく」
「そっか」
廣瀬は間延びした声でそう告げると、ファッション雑誌にポストイットを貼る作業に戻った。
なまえは肩を竦めると、再びハリボーのクマを摘んでモニモニ咀嚼する。
「…でもさ」
「ん?」
「最近、アンタと松田もお似合いなんじゃないかって思うようになってきたわ」
「エ?!」
雑誌から顔を上げた廣瀬が、八重歯を見せて笑った。
マ、本当は降谷くんとくっ付いて欲しかったんだけどね。
驚くなまえの手からハリボーの袋を奪って、三匹まとめて口に放り込む。
「ね、ちゃんと素直になるんだよ」
廣瀬の言葉に、なまえは小さく笑ってから袋を奪い返す。
「ア、ちょっと!」
「私のだもん」
「アタシも食べたい!」
至近距離で見つめあって。
二人同時に吹きだした。
「ねえなんで笑うの」
「だって廣瀬ちゃ、さっき付箋貼った服絶対似合わないもん」
「ハ意味わかんないんだけど! アタシ何でも着こなすタイプのヒトなんですケド」
クスクス笑いは大きくなって、キャッキャとはしゃぐ黄色い声だけが部屋に響き渡る。
ぽす、と二人して床に寝転んで。ファッション雑誌など部屋の隅に放り投げて。
女子二人はひたすら楽しそうに笑う。
何が面白いのかは全く分からなかったけれど、お腹を抱えてヒィヒィ言いながら笑い転げた。
「あー、おっかしい」
「笑いすぎてお腹痛い」
「ね」
廣瀬は笑いながら横を向く。
天井を見上げて笑うなまえの目尻が少しだけ光っているのを見つけて「やっぱり」と呟いた。
「えい」
「わ、なに!」
モデルのように小さな頭を片手で抱き寄せた。
さらさらの長い髪ごと腕の中に閉じ込めて、ゆるりと撫でた。
「…アタシは、何があってもアンタの味方なんだから」
「…ひろせ、ちゃ…」
「親友でしょ?」
廣瀬の優しい声と、柔らかな身体に包まれたマドンナちゃんは。
「……う、…うぅ…」
親友の胸に顔を埋めたまま、肩を震わせた。
「わ、…わたし、」
「うん」
「…松田くんが、…陣平のことが、す、きなの」
「知ってるよ。アタシを誰だと思ってんの」
「しん、ゆ、う」
「せいかーい」
自分の胸に縋りついて泣く親友の頭を撫でながら、廣瀬も涙まじりの声で「ほんとばかだね」と告げた。
「ひ、ひろせちゃんには、言、われたくない」
「はァ? 意味、わかんな…ア、アタシだって、芹沢よりは成績、いいもん」
「く、くらべるあいてが、間違ってる」
「それ、言っちゃ、だめだし」
二人して抱き合いながら泣いて、それから涙でグチャグチャの顔を突き合わせて笑った。
「ねぇほんとブス」
「廣瀬ちゃんだって」
「ふざけんなちょっとかわいいからって」
「かわいいのは事実だもん」
「お前
!」
楽しいのか悲しいのかは分からなかった。
それでも、ひたすらに声をあげて泣いて笑った。
「ね、卒業したくないね」
「うん」
「あともうちょっとで、離れ離れになっちゃうよ」
「なんでそういうことゆうの」
「やなんだもん」
「アタシもやだし」
離れがたかったから。二人してマドンナちゃんのベッドに寝そべって、抱き合って眠った。
卒業は、刻一刻と迫っていた。