はじまり




「ごめん、ごめんね來」

 その言葉は、まだ脳に深く深く刻まれていて。
 あの時の感情も覚えてる。
 どうして謝るの、ねぇ泣かないで。
 來がいるから、
 來がおかあさんを、


 守って、あげるから




「らーいっ!」
「っ、わ」

 ガバッと起き上がると美香と春子の目と視線がぶつかった。
 今のは、夢?
 キョロキョロと辺りを見回すとそこには泣いている母とか、
 机の上に置いてあった離婚届とか、大きなボストンバックとか。
 そういうものは一切なくて、あるのは屈託のない友人の笑顔とか、
 お気に入りの場所の体育館倉庫の匂いとか、11年後の自分、とか。
 そこで初めて理解する。
 嗚呼、夢だ。

「授業終わったよ」
「そっか、ありがと」

 立ち上がって深く息を吸う。体育館倉庫の古い匂いが鼻を突く。
 でもあたしは結構好き。だからもう一度深呼吸した。

「今日何した?」
「歌のテストー、それでさ聞いてよ來おっかしーの」
「ぎゃー!!美香ちんやめてえええええええええ」

 慌てて美香の口を塞ぐ春子を見てあたしも噴き出した。
 春子は顔を真っ赤にさせて絶叫している。
 歌のテストで春子は何したんだろう。
 おっちょこちょいな春子の行動を想像すると、それだけで笑いのツボをくすぐられる。

「じゃあちょっと顔洗ってくるね」
「おっけー」
「いってらー」

 すっかり寝癖が付いてしまった髪を一房ふわりとかき上げて、あたしは駆け出した。
 春の匂いがつん、と鼻を突いて、胸がきゅうとなった。
 ああ、
 あの日もこんなあったかくていいにおいの春の日だったなぁ。
 そんな事を想いながら、あたしは駆け出す。駆け出す。駆け出す。





「ほんっと春子おっかしかったなー」
「うるさいなぁー!!!ちょっと音程外したくらいで笑うなぁー!!」
「そこじゃないしー、サビのトコで思いっきりずっこけたことだしー」
「もう美香ちん意地悪ーっ!!!」
「來にも見せてあげたかったなぁー・・・」
「・・・・ねぇ、何で來ってさ、」
「うん、何でかなぁ・・・」


「何で音楽の授業は毎回受けないんだろう」




 顔を洗ってから、あたしは屋上へと足を進めた。
 ギィ、と古びた扉があたしを迎え入れてくれた。
 鉄っぽい匂い。あったかい日差し。あたしの、お気に入りの場所。
 柵と柵の間に足を入れてすとん、と座る。
 コンクリートが日差しを十分に吸っていて、ほんのり人肌くらいのあったかさを帯びていた。
 それが心地よくて、あたしはその場に寝転がった。
 制服のカーディガンがくしゃ、と音をたてて。
 それがどうしようもなく、
 どうしようもなく、あたしの心を揺らめかす。

 気が付いたら、喉を震わせていた。
 
 次々と生まれるリズム。
 それは一つに止まらず、形を変えていく。
 バラード。ロック。ポップ。ヘビーメタル。ラップ。
 それらはまるであたしの感情。
 歌う事、それすなわち感情を届ける事。
 震えろ、声帯。
 伝えろ、空気。
 届け、思い。

「ねぇ」
 
 低い声が頭上から降ってきて、感情は合唱を中断した。
 血の気が一気に引いた。
 え、もしかしなくても、
 聞かれて、た?
 冷や汗がどっとあふれ出る。ああ、寒い、寒い寒い
 凍えたように、凍りついたように、声帯は震えるのを嫌がった。 
 怖い。

「ああ、止めないでよ」

 続けて続けて、と声の主は残念そうにそう言った。
 止めないで、続けてなんてそんな、
 そんな残酷な事。

「それで君はいつになったら俺の顔を見てくれるのかな」
 なんかいじめてるみたいで気分悪いんだけど。

 その言葉であたしはまだ声の主の顔を見ていない事に気が付いた。
 ばっと顔を上げてまじまじと彼の顔を凝視した。
 黒髪に耳元の赤メッシュが目を引いた。
 黒縁の眼鏡。
 優しそうな面立ち。
 背中に背負った大きなギターケース。
 面白いくらい見覚えがない出で立ちだった。

「え、えと・・・どちらさまで・・・?」
「俺?俺はココの卒業生」

 何で卒業生がココにいるの・・・
 ?のオンパレードの脳内を整理する程の能力もないあたしは、ぐちゃぐちゃの脳で考えた。
 うーんうーんと唸っていると、ねぇ、とまた声をかけられた。

「音楽のレッスンとか何かしてる?もしくはしてた?」

 その質問に瞠目した。
 驚きすぎたことであたしは沈黙を産んだ。
 音楽のレッスン?そんな馬鹿な事、
 だって、だってあたしは、

 不幸を呼ぶ歌声、だから

「・・・その様子から推測すると何もせずにその声みたいだね」
「・・・どういう意味ですか」
「けなしてないよ、むしろその逆」


 彼はふわっと笑って首をかしげた。
 何だかその微笑がくすぐったかった。
 え、ていうか言葉の意味がよくわかんないんだけど、
 その逆ってどの逆?
 ぽかーんとしてると彼はプッと吹き出した。

「え?!ええ?!何で笑ってんですか!!!」
「い、いやごめ・・・っ、自覚、なさすぎでしょ・・・っ」
 くく、と笑いを殺すように彼はお腹を抱えた。

 あたしはもう何が何だかわからなくてただおろおろする。
 何?この状況は何?この人誰?どういう意味なの?
 ああもう窒息しそうだ。この疑問符の渦に飲まれてそのまま塵になるような、そんな感覚。

「決めた」

 彼が沈黙を切り裂いたから、塵にはならずに固形を保ったあたしの身体。
 自虐趣味とか自殺志願とか、そんなものはないけれど。
 嗚呼、残念だなぁ、と脳の隅っこでそう思った。
 決めた。
 そう言った彼の瞳が少年の様に輝いていた。だから。
 だから、そんな思いは吹き飛ばされたのだけど。

「決めた、って何を」

 あたしは心底わからなくて彼に問うた。
 彼はうん、と一度だけ大きく頷いて。


「君、俺とバンド組まない?」
 そう、声帯を震わせた。











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