音なんていらない



あの日から一週間経った。あれからあたしは歌を歌わなくなった。
歌うことが怖くなったからだ。歌うことを制御できない自分が怖くなったからだ。
もしかしてあたしは人間じゃない何かなんじゃないか。
そう思ったけど、あたしはどうしようもないくらい人間だった。
いっそ違う生物でありたかった。朝を告げる、鳥になりたかった。
そんな思いは何も救えない。あたしも、樹さんでさえも。

じじじ、という機械音で目が覚めた。
手を伸ばせば定位置に音の発信源があって、ぽんと軽く押すと音は鳴りやんだ。
窓を見るともうすっかり明るかった。
むくりと起き上がって布団から出ると、まだ少し肌寒かった。朝だ。
寝癖がついた髪を一撫でして、リビングへと繋がる戸を開けると。
「やっと起きたの。さっさと着替えなさい」
『母』のいつも通りの言葉。こっちを見ようともしない。
あたしは小さく返事をして、逃げるように洗面台へ向かった。

両親が離婚したのは小学5年生の頃だった。
原因は父の暴力だった。母にはいつも痛々しい痣があった。
母が出ていく時、母はほろほろと泣いて。必ず迎えに行くから。そう言った。
あれからもう5年経つ。母の消息は絶えて父は急性アルコール中毒で死に、あたしは遠縁の金持ちの親戚に引き取られた。
そこで待っていたのは冷たくてそっけない世界。
毎日お金だけ渡されて、何処でなにをしていても彼らはあたしに無関心だった。
『毎日毎日親が早く帰ってこいってうるさいの』以前美香が言っていた。
そのときはへぇめんどくさいねー、とか表面だけの言葉を発したけれど。
違う。あたしは違うと思う。だってこの世で一番哀しいのは嫌悪じゃないって思うから。
あたしは、あたし自身は、無関心が一番哀しくて怖い。
そしてそれに慣れてしまうのが、それよりももっと哀しい。
だからあたしは慣れてしまわないように、感覚が麻痺してしまわないように、
今日もそっと『母』の言葉を胸に突き刺す。


「今日のお金置いとくから鍵閉めて行って」

制服に着替えてリビングの机を見ると、諭吉さんが一人。あたしは彼をそっと財布の中に閉まった。
『父』の姿はもうなかった。『父』は『母』よりもあたしに無関心で、なんだかあたしの存在意義までわからなくなってしまうので、正直少しほっとした。
『母』は忙しく出ていった。服装からしてきっと知り合いの奥さん方とランチだろう。
でも慣れてなんかやんない。当たり前なんかにしてやんない。
あたしは諭吉さんが顔をのぞかせている財布を鞄に投げ入れて、いってきますを吐き捨てた。


「おはよー來っ」
「あ、おはよー春子」

教室に入ると、春子がいい笑顔で出迎えてくれた。
学校は好き。学校はたいてい『好意』と『嫌悪』で出来ているから。
好きと嫌いで入り混じるこの場所で生きていると、なんだかすごく安心する。

「なんかご機嫌だね、なんかあったの」
「わかる?わかっちゃう?」

にやにやする春子はいつも以上にテンションが高い。あたしは苦笑しながら鞄をおろす。春子はそれを確認してから理由を述べた。

「彼氏できたっ」
「嘘マジで」
「ほんとー」

携帯をぶんぶん振り回す春子は本当に嬉しそうで。あたしもつられて笑顔になった。

「帰りお祝いしよっか」
「おごり?ねぇおごり?」
「シェイクならいいよ」
「100円かよー!!」

ブーイングする春子にデコピンをして、でも春子は笑みを絶やさない。
春子はしばらく二ヤけていたけれど、思い出したように顔を上げた。

「そういやぁあの人どうなったの」
「あの人?」
「先週車乗ったじゃん。赤メッシュのイケメン」

言葉が詰まった。春子の言う『あの人』は間違いなく樹さんだった。
あたしに歌を勧めた、音の綺麗なギターの彼。
あたしは少し沈黙して、苦笑交じりに言った。

「別に何もないよ、ちょっとした知り合い」
「ふぅん」

進展したら教えてね、と春子は笑った。すごく幸せそうだった。
その後他愛もない話をしていたら、いつのまにかいつものメンバーが揃っていた。
1限の予鈴が鳴って、皆が席を立ち始める。移動か。

「んじゃ終わったら起こしにいくから」
「へ?」
「今日も音楽サボるんでしょ?」

美香の言葉でやっと気がつく。そうか、音楽か。人前で歌うことが怖くて、ずっと逃げ続けてきた音楽。
それでも選択してしまったのは何か期待していたのかもしれないけど。その期待に応えられそうにもない。
でも。

「ね、」

呼びとめると、美香たちは振り返った。あたしは心を落ち着かせておずおずと言った。

「あたしも授業受けるからちょっと待ってて」

返事は肯定といくつもの笑顔だった。



「今日は歌のテストの続きをします」

お堅そうな年配の女教師はそう声を張り上げた。
教室に入った途端嫌味を言われたけれど気にしない。平然と自分の席に着いた。
先週の続きなんだろう、あたしの前の席の子が名前を呼ばれて席を立った。
石像みたいな顔とは似つかわしい、先生が奏でるピアノの音を合図に歌声が始まった。
それはどこか懐かしい曲で。心にじぃんと染みた。
目を閉じるとその音は色となってあたしの脳へと訴える。歌おう、と。
真っ白なあたしの心に染み込むそれは、どうやったって消せる訳が無かった。
・・・・ああ、やっぱりあたしは、
そう自覚した途端、急に怖くなった。心臓がきゅう、と音を立てる。

「・・・來?どしたの?顔色悪いよ」

声が隣で聞こえて、そっちを見ると美香が心配そうにあたしを覗きこんでいた。
來?ともう一度聞こえたけど、返事ができなかった。美香の顔があまりにも心配そうな顔をしていたので、こう思った。
あたし相当ひどい顔してるんだなぁ。
客観的にそう思ったら、もう限界だった。
がたっという音が教室に響く。イスが倒れた音だった。
先生のピアノが止むと、歌声も止まった。弱い和音が完全に止んだ後、あたしは教室から全速力で飛び出した。
先生が、友達が、あたしを呼んでいた。もうそれすらも聞こえない距離だなんて物足りない。音が完全に聞こえない距離まで。
誰かあたしを連れてって。
















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