チチ、と小鳥のさえずりに、エリザベスは目を覚ました。ぼんやりする頭をゆるりと振って、隣で眠るシエルを見つめる。
 シエルが十六になった冬の頃、彼は再び姿を消した。まるであの日を彷彿とさせる灰色の空の日に。
 何かの暗示のようで、エリザベスの胸は不安でいっぱいだった。シエルがエリザベスに何かを隠しているのは知っていた。けれどいつか話してほしいと思っていたのはエリザベスのわがままだったのか。
 あの日と違って、いまのシエルには真っ黒な執事がついている。とても有能で、いつだってシエルを支えてきたセバスチャン。だけどどうして? どうして、シエルが今度こそ戻ってこない気がするの──?
 どこまでもあの頃の再現のように冬の、灰色の一ヶ月が過ぎた頃、シエルは帰ってきてくれた。真っ黒な執事を伴って。
 そうして彼は話してくれた。自分が、シエルでありながらシエル・ファントムハイヴではないことを。六年前、二人の『シエル』の身に起きたことを。
 言葉にならなかった。エリザベスが泣き暮らしていた頃、シエルは──シエルは──!
 どうしてそんなにひどいことができたの? あたしの大切な人たちに、どうして!
 見も知らぬ、とうに死んだ者たちに、憎悪の感情が沸き起こりかけたとき、シエルの手が頬に触れた。
「そんな顔をしないでくれ、リジー。お前には笑顔がよく似合う。お前の笑顔が僕は──僕たちは大好きだったんだ」
 エリザベスがどんなに想いを伝えても、シエルは恥ずかしがって、言葉では返してくれなかった。その、シエルが、大好き、って。
「シエル。シエルのしたかったことは、終わったのよね? ……だったら、あたしをお嫁さんにしてくれる?」
 シエルは一瞬きょとんとしたあと、顔を真っ赤にして、それから表情を曇らせた。
「でも……僕は……」
「あなたは『シエル』だわ。確かに、あたしが初めて好きになったシエルじゃないけど──素直じゃなくて、でもあたしを大事にしてくれて、守ってくれていたのも、シエル、あなただわ。あたしはシエル、前のシエルも、いまのシエルも、全部ぜんぶ大好きだから、あなたのお嫁さんになりたいの」
 プライドが高くて、ぶっきらぼうで、素直じゃなくて、あたしより弱いけど。いつだってあたしを大事にしてくれて、守ってくれて、あたしの社交界デビューのために苦手なダンスだって習得してくれたあなた。
 そうしてエリザベスは、彼が大好きだと言ってくれた笑顔でもう一度聞いた。
「あたしを、あなたのお嫁さんにしてくれる?」
 シエルは小さく笑って、膝をついた。エリザベスのスカートの裾に口付ける。
「エリザベス・エセル・コーディリア・ミッドフォード侯爵令嬢。私と、結婚していただけますか?」
 もちろん、あたしの答えは。
「喜んで。シエル・ファントムハイヴ伯爵」
 こうして、エリザベスはシエルのお嫁さんになった。
 シエルとエリザベスが結婚したのは、エリザベスが十八を迎えた年だった。本当ならすぐにでも結婚したかったけれど、伯爵と侯爵令嬢の結婚となるといろいろと時間が必要になる。シエルは貴族の男性にしては早い結婚だが、エリザベスに恥を欠かせないようにと気遣ってくれて、彼女が十八になった日に、シエルとエリザベスは結婚式を挙げた。
 貴族の結婚は、教会に登録される。かつてシエルとエリザベス、それぞれの父と母がしたように、登記書にサインしたときの多幸感は格別だった。教会に認められることが大事なんじゃない。堂々と彼の妻だと名乗れるようになったことが、エリザベスは本当に嬉しくて、幸せだった。
「ん……もう朝か……?」
 シエルの寝顔を眺めていると、彼は眠たげに瞼を押し開いた。
「そうよ。おはよう、シエル」
 にっこり笑うと、シエルはぱちぱちと瞬いて、微笑んだ。
「ああ、おはよう、リジー」
 エリザベスは瞼を伏せる。少しの間を置いて、額にやわらかな唇が押し当てられた。けれどエリザベスはぷうっと頬を膨らませる。
「もうっ! シエルったら、いつになったら唇におはようのキスをしてくれるの?」
 照れ屋さんなエリザベスの旦那様は、顔を真っ赤にして「そのうちな」ともごもごと呟いた。
 しょうがない旦那様ね。とエリザベスは笑って、シエルの頬にキスを返した。
 ガウンを羽織って、極力見苦しくないように整える。するとまるでそれを見計らったかのように寝室の扉がノックされ、アーリー・モーニング・ティーを乗せたワゴンを押したセバスチャンが入ってきた。本来、奥方の寝室に執事が入ってくることはないのだが、そこはあえて言うならファントムハイヴ流だ。
 彼はエリザベスが出会った頃とまったく変わらぬ姿で、一分の隙もない微笑みを見せた。
「おはようございます、旦那様、奥様」
 奥様、という響きに、エリザベスの心はふわりと舞い上がった。エリザベスがシエルの妻になって半年が過ぎるが、彼女がレディ、あるいはお嬢様と呼ばれていた頃から知っている人々から奥様と呼ばれるのは、こそばゆくも嬉しい。
「おはよう、セバスチャン」
「……今日の紅茶は?」
 それはシエルにとって、セバスチャンに対する「おはよう」と同義だ。有能すぎる執事は、にっこりと答えた。
「本日はマリアージェ・フレールのダージリンをご用意いたしました。朝食はマフィンとスコーンのご用意がございます」
「スコーン」
「じゃああたしはマフィンをいただくわ。それで半分こしましょうね、シエル」
「……ああ」
 むす、とシエルが頷く。これは怒っているのではなく、照れているだけだ。シエルは人前でエリザベスと仲良くすることを──とくにセバスチャンがいる場だと照れて嫌がる傾向が強くなる。
 二人でセバスチャンが淹れてくれたアーリー・モーニング・ティーを飲んでいると、ふとエリザベスのいたずら心がむずりとうずいた。
「ねえ、シエル」
 ずいぶん大人びた横顔を見つめ、エリザベスはシエルを呼んだ。セバスチャンがいるからことさらぶっきらぼうに──けれど彼がエリザベスに応えてくれなかったことはない。
「なんだ?」
「今日もシエルがだーいすきよ。シエルは? あたしのこと好き?」
 まるで熟れたリンゴのように顔を真っ赤にしたシエルは、エリザベスとセバスチャンと、視線を忙しく左右させた。
「えー……っとだな……」
 葛藤していたシエルは、エリザベスがいたずらっぽく笑っていることに気づいて、少しだけ恨みがましくエリザベスを見た。
「リジー……」
「あら、今日もシエルが大好きなのは本当よ。明日も明後日も、ずっとずっとシエルのことは大好きだわ」
 そう言えば、シエルはむぐぐと何やら再び葛藤し出した。かと思えば──シエルは油断しきっていたエリザベスの隙をついて、彼女の唇にかすめるようなキスをした。完全に不意打ちだった。
 顔を真っ赤にしたままのシエルに釣られるように、エリザベスも顔を赤らめた。
 もうっ! もうっ! シエルったら! 大好きなんだからっ!
 くすりと空気が震えて、セバスチャンが口を開いた。
「旦那様もおやりになるようになりましたね」
「うるさいっ!」
 そう怒鳴るシエルの、寝室では隠さなくなった右目は左目とは違う紫をしていて、逆ペンタクルが刻まれている。
 結婚するのだからと、シエルはエリザベスに、セバスチャンの正体をも教えてくれた。それで納得した。エリザベスがセバスチャンには簡単に後ろを取られてしまうことにも。彼の正体が悪魔というなら、人間ではそうそうかないっこない。
 十三の頃のようにセバスチャンとやりあう夫を見つめる。
「ねえ、セバスチャン」
「いかがなさいました? 奥様」
 悪魔セバスチャンと契約し、願いを叶える代償にシエルが支払うのはその魂なのだという。
 でもね、セバスチャン。あたしは貪欲なシエル・ファントムハイヴ伯爵の妻よ。それに嫉妬深いの。シエルを、もう二度と誰にも渡したくないの。それがたとえあなたでも。
 あたしはかつて誓った。シエルを守れるお嫁さんになろうって。
 だからセバスチャン。シエルの魂さえも、あたしは守ってみせる。
「あたし、負けないわ」




 
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