シエルが、シエルのための復讐をやり遂げたのは、六年前のような、灰色の空の冬の日のことだった。
 これで、シエルの願いは成就した。契約終了だ。後はこの魂を悪魔セバスチャンが喰らうだけ。
 セバスチャンと契約した日からわかっていたことだ。心残りなどない。自分に未来がないことは知っていた。
 ……あえて心残りと言うなら、それは、エリザベスの願いを叶えてやれなかったことだろうか。思って、シエルは自嘲する。
 違う。エリザベスがなりたいのは『シエル』のお嫁さんだ。偽物の自分ではなく、本物の。それはもう、永遠に叶わない。
 リジーが結婚適齢期を迎える前に復讐が終わってよかった、と思う。婚約者が不慮の死を遂げたという形なら、彼女の名誉に傷はつくまい。きっと彼女にふさわしい夫となるべき男が見つかる。
 ちりりと胸を焦がしたものが嫉妬と呼ぶものだと気づいてはいたが、シエルは知らないふりをした。
 燃え盛る建物を前に佇む悪魔に、シエルに高らかに告げる。
「契約は成った。さぁ、僕の魂を喰らうがいい! 悪魔よ!」
 悪魔に魂を喰われる瞬間というのはどんなものなのか──ぼんやりとそう思うシエルの前で、セバスチャンはクッと笑った。
「──いいえ。いまはまだ、あなたの魂はいただきません」
「なに……?」
 予想外の言葉に、シエルは目を剥いた。
「さぁ、お屋敷に帰りましょう。エリザベス様が心配してらっしゃいますよ」
 言ってシエルを抱きかかえようとするセバスチャンに、シエルは「待て!」と抵抗した。
「お前との契約はこれで終わっただろう! なぜ僕の魂を喰らわない!」
 問うと、セバスチャンは少し考えるふうにした。
「そうですね……心境の変化、とでも言いましょうか」
「はぁ!?」
 セバスチャンはやれやれと息を吐いた。
「私としたことが、エリザベス様にほだされてしまったようです。所詮あなたの一生など、私からすると瞬きの間のこと。あなたとエリザベス様がどんな人生を歩むのか、少々興味を抱いてしまった。……それだけのことです」
 予想外の言葉に、シエルは言葉をなくした。……リジーとの未来を、望んでいいのか?
 けれど、とシエルはためらう。彼女の望む『シエル』と、シエルは別人だ。
 そんなシエルの考えなどセバスチャンにはお見通しのようで、彼は「おやおや」と嗤った。
「──欲しいなら、手に入れてしまえばいいではありませんか。それでこそファントムハイヴ伯爵でしょう?」
 それはまさしく、悪魔の囁きだった。
 セバスチャンの言い分は、決して嘘ではないのだろう。だが彼は悪魔だ。純粋に情にほだされた、というのは少々疑わしい。
 だけど。……リジーとの未来を夢見ていいなら。
「僕は嘘つきだ」
「存じております」
「でももう、リジーにだけは嘘をつきたくない。すべて話して、それでもリジーが僕を受け入れてくれたなら、僕はどこまでも貪欲になろう。──そうして僕が一生を終えるときこそ、僕の魂を喰らうがいい! セバスチャン!」
「──御意、ご主人様イエス・マイロード
 そうしてエリザベスのもとに帰ったシエルが話したのは、すべての真実だった。
 ヴィンセント・ファントムハイヴとレイチェル・ファントムハイヴの間に産まれたのは、双子の男児だった。けれどこの時代、双子というのは少々厄介だった。不吉の象徴として忌避されることもあれば、崇拝の象徴として崇められることもあった。ましてファントムハイヴ伯爵家の業は深い。どんなことに悪用されるかわからなかった。
 それで、ヴィンセントたちは彼らが双子であることを秘匿することにした。妹にも義妹にも、本邸に勤めていた者以外には誰にも。
 跡継ぎには兄の『シエル』を、そうして弟のシエルは病弱だったこともあり、調子の良いときは彼自身が『シエル』と入れ替わって、エリザベスやマダム・レッドと『シエル』として接していた。
 ──あの日、すべてが変わるまでは。
 そうして、シエルは『シエル』とおのれの魂を代価に悪魔セバスチャンを喚び出し、契約を交わしたこと。
 騙していてすまなかった、と詫びたシエルに、エリザベスは言ったのだ。
「シエル。シエルのしたかったことは、終わったのよね? ……だったら、あたしをお嫁さんにしてくれる?」
 思わぬ言葉に、シエルはぽかんとした。すべてを知った上で、それでもリジーは『僕』の花嫁になろうと言うのか?
 戸惑うシエルに、エリザベスは言ったのだ。
「あなたは『シエル』だわ。確かに、あたしが初めて好きになったシエルじゃないけど──素直じゃなくて、でもあたしを大事にしてくれて、守ってくれていたのも、シエル、あなただわ。あたしはシエル、前のシエルも、いまのシエルも、全部ぜんぶ大好きだから、あなたのお嫁さんになりたいの」
 それは、シエルが心の奥底で、どんなにか欲しいと思っていた言葉だったのかを自覚した。
「あたしを、あなたのお嫁さんにしてくれる?」
 シエルは小さく笑って、膝をついた。エリザベスのスカートの裾に口付ける。プライドも何もない、すべてをかけた求婚方法だ。
「エリザベス・エセル・コーディリア・ミッドフォード侯爵令嬢。私と、結婚していただけますか?」
 エリザベスは、とびっきりの笑顔で頷いた。
「喜んで。シエル・ファントムハイヴ伯爵」
 ──ああ、もう、一人の夜は来ない。
 十六の冬、シエルは初めて、エリザベスと口付けを交わした。




 
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