01、



 その日、リヴァイは仕事で普段なら使わない沿線に乗っていた。今日はこのまま直帰だ。
 満員電車に揺られていたリヴァイの目はふと、不穏に動く男の手に気づいた。その手が何をしようとしているのかを悟って、不快感に眉をしかめる。ちらりと見た顔はどこにでもいそうな中年のサラリーマンで、手っ取り早く締め上げようにもこのタイミングでは捕まえたところで言い逃れができてしまう。なにしろ未遂だ。どうすべきか判断しかねている間に、男の手が目の前の女性のヒップに伸びた。チッと小さく舌打ちして、リヴァイが男の手を捻りあげようと手を伸ばすより早く、男が悲鳴を上げた。
 男の腕を捻りあげたのはヒップを触られていた女性だった。黒のストレートロングに、女子大生っぽいやわらかさと華やかさが調和したファッションの彼女は、切れ長の目を剣呑に輝かせて捻りあげた男の腕にさらに力を込めた。ひぃぃと情けない悲鳴を上げる男に、彼女は冷ややかに言葉を発した。
「次の駅で降りてもらう。逃げようなんて思わないで。私の特技は肉を削ぐこと……大切な場所を削がれたくなければ、おとなしくして」
 その迫力に男がひぃひぃと頷くと、彼女はふんと鼻を鳴らした。そうして周りが引いていることに気づいたようで、しかし冷静に「痴漢です。お騒がせしました」と有無を言わせない。悪くない、とリヴァイが静かに感心していると、視線を感じたのか、女性がこちらを向いた。彼女はリヴァイを見て一瞬目を見開いたあと、苦々しげに呟いた。
「……どうして、最初に会うのがチビなの」
「喧嘩売ってんのか、てめえ」
 リヴァイとミカサの、二千年ぶりの再会だった。
 被害者と目撃者として痴漢を警察に引き渡したあと、リヴァイとミカサは自然な流れで食事をすることになった。リヴァイにはこの辺りの土地勘がないからミカサの案内で、話の内容が内容なだけに、個室のある居酒屋に入った。ちゃんと扉までついていて、閉めてしまえば周りがまったく気にならないつくりだった。
 メニューを開いて、適当に飲み物とつまみをオーダーしてからリヴァイは口を開いた。
「いいとこ知ってるじゃねぇか」
「前に、ゼミの飲み会で来たことがあって」
「ゼミ?」
 はい、とミカサは頷いた。
「私はいま、大学生なので。一年生なのでまだ正式なメンバーではない……ですけど」
 相変わらずリヴァイに対して敬語が怪しい。だがもう上官でも部下でもないので、話しやすいように話せと手を振った。
「空白年間について研究しているゼミです」
「ああ」
 ──空白年間とは。いまから二千年近く前よりの数百年間、人類がどこで、どんな生活をしていたのか、そんなことさえも謎に包まれた時代のことだ。わずかに出土した当時の欠片が空白年間の実証と、感嘆すべき技術力の高さを研究者に推察させている。かくいうリヴァイも。
「俺もそうだった」
「兵長も?」
「……俺たちは知ってるからな。空白なんかじゃない、その日々を」
 リヴァイとミカサは空白年間がどんなものだったかを知っている。彼らはその時代を生きていた。巨人と戦い、人類のために心臓を捧げ、まだ見果てぬ大地へと心震わせ、自由の翼を背中に乗せて、確かに生きていたのだ。
 遠い遠い昔の、夢かと思うような記憶。けれど夢ではない、生ある日々。それを証明したかった。
「……私も、です」
「まあ、こうして俺とお前が再会したんだ。公式な証拠にはなりゃしねえが、俺たちにはそれだけでも充分だろ」
 リヴァイの言葉に、ここまで淡々とした無表情を保っていたミカサが、小さく笑った。
「俺はいま、リヴァイ・スミスってことになってる」
「スミスって……団長?」
「おう。エルヴィンの縁者だ。一応弟……ってことになんのか。いまだに違和感があるがな」
 リヴァイは赤ん坊の頃、養護施設の前に置き去りにされていた。そこで十七まで育った。ぐれようにも前世の記憶が邪魔をして(それでも不良連中に兄貴と慕われていた)とりあえず真っ当に生きていたリヴァイの前に、白馬に乗った、ならぬ、ベンツに乗ったエルヴィンが現れたのだ。そりゃあもう、嫌味なくらいさまになっていた。
『やあリヴァイ。うちの子にならないか?』
 きらりと白い歯を光らせて笑うのはどう見てもエルヴィン以外の何者でもなくて、気づけばリヴァイは養子縁組の書類にサインさせられていた。当時まだ大学生だったエルヴィンは、親をどうだまくらかしたものか、リヴァイは好意的にスミス家に迎え入れられた。おかげさまで大学にも進めたわけだが、卒業したあとは誘われるままにスミスコンツェルンに入り、エルヴィンの下で働いている。昔のように。
「よかったですね……?」
「疑問系で言うんじゃねえよ」
 そこで一旦話は途切れた。
 リヴァイは生ビールのジョッキを、ミカサはピーチサワーのグラスを掲げた。再会に。
 よく冷えたビールをあおりながら、リヴァイはものめずらしいものを見る心地でミカサを見つめた。
 腰まで伸びた黒髪。綺麗な髪だ。こんなに髪を伸ばしたミカサは初めて見た。
「……兵長は、団長以外の人とは……?」
「会えてねぇな、まだ」
 そうですか、とミカサは落胆に肩を落とした。それでわかる。彼女が一番会いたい相手は、まだ。
「エレンは、見つからねぇか」
「…………はい」
 きゅっと唇を噛みしめる。
「私は恵まれている。取り立てて生活に不自由しない程度の家庭に生まれて、両親から愛されて……昔の記憶が鮮明な分、違和感を感じてもいるけれど……幸せ、なんだと思います。でも」
 リヴァイは目をすがめた。
 ミカサの表情は、言うほど幸せではないだろう色を含んでいた。幸せだとわからないわけじゃない。巨人の脅威にさらされることもない現代は決して生きやすいわけでもないけれど、かつて人類が欲したものが手に入る世界だ。それは確かに幸せなことなのだ。わかっては、いる。
「……飲むか。おごってやる」
 エルヴィンがいたリヴァイとは違って、ミカサのそばには誰もいなかったのだ。幼い頃はエレンやアルミンのことを口にすることもあったという。けれどそれでどうなるかは、リヴァイとてようく知っている。おかしなものを見る目で見られて終わりだ。あるいはかわいそうなものを見る目。ミカサは誰にも言えない記憶を、ずっとひとりで抱え込んでいたのだ。
 同じ記憶を共有する者として、またかつての上官としてのよしみで、言外にとことん付き合うと示せば、ミカサはこくんと頷いてぐいっとサワーを一気にあおった。ダン! と雄々しくグラスをテーブルに置いて、店員を呼ぶべくベルを鳴らす。酒の追加を注文してリヴァイに向き直ったミカサの目は完全に据わっていた。サワー一杯でこれか。
 ミカサに酒を飲ませるべきではなかったらしいことに気づいても、時すでに遅しであった。


 気づいたとき、リヴァイの前に広がっていたのは見知らぬ天井だった。

「………………………………は、」

 らしくなく、リヴァイは混乱の渦に飲み込まれた。これはなんだ。
 リヴァイは居酒屋にいたはずだった。それがどうして、あからさまにホテルの一室とわかる部屋でベッドにいる。どうして隣に、規則正しい寝息を発しているミカサが眠っているのだ。
 バッと衣服をあらためる。多少の乱れはあるものの、服は着ている。リヴァイも、ミカサも。ほっとした。──って、待て待て待て!
 口許を覆って、リヴァイはこの状況を必死に理解しようとした。
 ミカサと偶然再会して、居酒屋に入って、ミカサにとことん付き合うと決めて、それからどうした? ……そうだ。
 ミカサは心の堰が切れたようだった。
 エレンに会いたい。と、しきりにこぼした。
 エレンはミカサの家族だった。家族で、恋人で、──夫婦だった。
 ふたりの結婚式にはリヴァイも出席した。人類は勝利をつかんだけれど、失ったものは多く、そんな中でのふたりの結婚式は、明るい未来への希望だった。
 普段着に花を添えただけのような質素な式だったが、ミカサは幸せそうに笑っていた。
 リヴァイは初めて、ミカサを美しいと思った。確かにミカサが客観的に見て美人だということは知っていたし、立体起動で空を飛ぶ姿は誰より美しかった。けれどミカサ自身をあんなにも美しいと思ったのは、あのときが初めてだった。
 ふたりの結婚生活はそう長いものではなかった。何度も巨人化したエレンの身体はすでにボロボロで、残された時間もあまりなかったのだ。それでもエレンは、あがいてもがいて、精一杯の時間を生きた。それは尊敬に価することだ。
 アルコールが入ったせいだろう。ミカサは話しながら次第にべそをかきだして、しまいにはわんわん泣き出した。
 エレン、エレン、エレン。どこにいるの。どうして会えないの。会いたい。さびしい。こんなに会いたいのに、どうして。
 ミカサがこんなにも弱った姿をリヴァイにさらすのは、初めてのことで。リヴァイはびっくりして、うろたえた。ミカサに逆ギレ気味に「どうして飲まないの!」となじられながら飲んでいたので、リヴァイ自身多分にアルコールが入っていた影響もあったのだろう。
 それで、どうなった。
 リヴァイはにわかに痛み出した眉間を揉みながら、回想を続ける。
 とにかくここを出よう。さすがは酒の席とあって、店員はミカサのことをただの泣き上戸と思ったようで、気の毒そうな目を向けられた。それを幸いに店を出た。
 ふらふらとおぼつかない足取りのミカサの手を引いて、駅前まで歩いた。しかし駅前でミカサは座り込んでしまって。そうだ、リヴァイはミカサの家を知らないし、近くのホテルに泊めて自分は帰ろうと思ったのだ。いつの間にか目を閉じていたミカサを背負ってチェックインして、この部屋に入って、それで。
『エレン……?』
 ベッドに寝かせて、去ろうとしたリヴァイの袖を引っ張ったミカサはそう呟いた。一瞬どう返すべきか迷って、違うと素直に言えなくて押し黙ったリヴァイに、ミカサは勘違いしたまま笑いかけた。
『やっと、会えた……』
 息が、詰まった。
 ミカサはあの日と同じ顔をしていた。結婚式の日にリヴァイが見た、心底美しいと思った顔。
 アルコールのせいか、はたまた『エレン』に会えた喜びのせいか、ミカサの頬は上気していて、瞳はこれ以上ないくらいにとろりとまどろんでいて、なんというか、……情欲をそそられた。
 ミカサが笑んだまま両腕を広げた。リヴァイは誘われるように身をかがめ、彼女の腕が首に回されるに任せた。目を閉じる。
 ──ああ、そうか。
 その感情はすとんと心に落ちた。

 俺はこの笑顔に、惚れていたのだ。

「クソが……」
 リヴァイは息を吐き出す。自己嫌悪に吐き気がした。
 幸い、と言うべきだ。あのあとミカサはすぐに眠ってしまって、行為には及ばなかった。
 人として、してはならぬことをするところだった。酒の勢い、なんて言葉は言いわけにもならない。ミカサの一途な心を利用した。最低の男がすることをしようとしていた。
 未遂で終わって、助かった。
 リヴァイは眠るミカサに視線を落とす。頬にかかる髪を払いのけてやれば、ミカサが身じろぎした。リヴァイの指に頬をすり寄らせて、微笑む。かわいい。
 ああ、だめだ。
 リヴァイがミカサにしてやれることなどひとつだ。できることは限られている。エレンを見つけて、ミカサの背を押してやるのだ。エレンの腕の中へと。そう、思うのに。
 一度自覚してしまった感情は、厄介だった。
 ミカサの黒髪を指に巻いて口づける。いとおしさが込み上げる。

 ミカサよ、俺は。






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