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私の好きな人



「ナマエさん」

西谷に呼ばれても、一瞬反応できなかった。

だって、ついさっき西谷の赤面に登り詰めた私のメンタルは、菅原の苦い顔ですっかり沈み込んでいたから。

しかも、彼が恋心を消しきれてないって気づいたこと自体っていうより、
それに気付いたことによって、自身の立ち位置も菅原となんら変わらないんだってことを思い知ったことが、私の心を深く沈めていた。
好きな人に好きな人がいるってことが、いかに悲しいことなのか思い知らされた。

だから私は悪ノリを忘れた。
そして笑顔を凍らせた。


それなのに次の瞬間、

「よそ見なんて、ダメっスよ!」

完全に意識が逸れていた私の手元から、シャリっと勢いよくガリガリ君に齧り付く音がした。

「え、」

驚いて手元を見ると、私の持っていたガリガリ君の、およそ半分が無くなっていた。

「…………!?」

びっくりして西谷を見れば、

「ナマエひゃんがよそ見なんかしてるからっス!」

口にものを入れたまま、悪戯っ子みたいな顔して笑ってる小学生みたいな高校生。

「え、うそ。一口?」

周りを見渡せば、

「西谷を前によそ見したミョウジが悪いな」

なんて澤村くんまで笑ってて。

「……やられた」

ぽかんと口を開いた私に、

「だから言ったじゃないスかー!」

西谷はその真っ直ぐな瞳で言う。

「俺だけ見ててくださいって!」

それは、いつぞやの約束。
目を瞑れば鮮明に思い出せる程に、私の瞼の裏に焼きついた西谷の真剣な表情。全身で威力を殺す神業のレシーブ。小さいのに存在感が凄い、かっこいい背中。

思い出して言葉を失う私に、

「残り半分はお礼です!特別にナマエさんに差し上げます!」

なんて笑う西谷。
その裏表のない笑顔に、私は何度も救われてきた。

「なんなら俺もあーんしてやれますよ?」

そしてこれから。
きっと何百回って、苦しくなるんだろうなって思った。

片思いって、すんごく苦しくてすんごく切なくて。

「ん。じゃあはい、持って」

「え、ま、マジすか」

「ほら、」

あとやっぱり、すんごく楽しい。

「は、はい!」

半分食べられちゃったガリガリ君。
その棒を西谷に手渡すと、私はその目を見ながら水色の氷の塊に齧り付く。

その間、西谷から視線は外さない。

顔を見ながらアイスに舌を這わせれば、

「…………っ」

西谷がその唇をわなわなと震わせて、また真っ赤になる。

その顔を見て込み上げる感情を押し殺して、

「西谷ぁ、あんた今やらしーこと考えたでしょう?」

不敵に笑むと、後ろで田中の奇声が聞こえる。

「か!か!考えましたぁああすみませんナマエさんっ!!」

目の前の西谷も背筋を伸ばして白状。
なにこいつ本当正直過ぎるし可愛過ぎる。

どうしよう私、どんどん性格悪いやつになるよ!って思うのに、西谷を翻弄していられるなら。
こんな顔で見ていてくれるなら。

私は、どんなに性格が歪んだっていいって思っちゃうんだ。

「ふふふ。そーかいそーかい!私を出し抜こうなんて10年早いぞー?ショーネン?」

ぺろりと唇の端を舐めて見せれば、西谷が目の前でゴクリと喉を鳴らす。

見つめ合う数秒、泣きそうになるくらいドキドキする。心臓が苦しくて堪らないのに、いつまでだってこうしていたい。なんて思ってしまう私の愚かさを、西谷は知らない。

だから。

「残りは西谷食べといて!私もー仕事戻んないと怒られちゃうから!じゃ!」

視線を逸らして個室を出た。

「じゃ!ごゆっくりー!」

ため息が漏れた。

私、ばかだなあって。

西谷は優しいし、馬鹿だから美人に弱いし、だからあんな風に挑発したら、きっと誰にだってあんな風に顔を真っ赤にして、真っ直ぐ見つめ返してくれるんだ。

なのに。

私は勘違いしちゃいそうになるんだ。
ちゃんと意識して気を引き締めていても。

あんな真剣な顔と向き合っていたら、西谷も私のことそれなりに想っていてくれたりするんじゃないかって、滑稽な妄想をしてしまいそうになる。

ばかだなぁ。本当ばか。
偏差値はこの恋を自覚してからの一ヶ月あまりで、10くらい下がったんじゃなかろうか。

西谷は、潔子が好きなの。
わかってるのに。

なんで好きでもない女に、

「俺だけ見てろじゃないよ、ばか」

そんな思わせぶりなことばっかり言うんだろう。





バックヤードへ行けば、店長はまだあの客に捕まっているという。
恐ろしい執着心だな。
あまりにも酷いなら警察とか呼んでもいいんじゃない?と思ったけれど、それも店長の指示なしには出来ないし、みんな困惑していた。

今日はお客さんが多いわけじゃなかったし、店長がいなくても店は一応問題なく回る。
けど、きっかけは私だったと思うし、気にせずにはいられなかった。

そんな私にフリーターの先輩が笑いかけてくれて、昔もっと酷いクレーマーにつかまった店長が二時間クレーム対応してたこともあるから大丈夫と言った。多分、嘘ではないだろうけれど、店長って大変だなおい……。

とりあえず言われた通り、トイレ掃除に行けば、なんとあの男子トイレの前に中肉中背の男が立っていて。

ぞくり。全身の毛が逆立つような気がした。

あの人のツレだ。一目でわかった。
目が合いそうになったけれどすぐに逸らしたから、ギリギリ合っていない。大丈夫。

でもトイレ掃除するならあの人の隣を通って、まずは女子トイレが空いてるのかどうか確認しなくてはならない。

きっと、男子トイレが混んでて、だからあんなところに立ってるだけだ。別に屋内だし周りの目もあるし、平気。大丈夫。

必死にそう言い聞かせて、

「失礼しまーす」

その隣を抜けると、意外なくらいすんなり通過できた。
とんでもなく視線は突き刺さっていたけれど、別に何か話しかけられるようなこともなかった。

とりあえず空いてる女子トイレから。

そう思って、内側から鍵をかけてから上から下へ、決められた手順通りに拭き掃除をして、便器内を軽く流して汚物入れを変える。

忙しい日だとトイレが悲惨な状態になっていることもあったけれど、今日はとりあえず大丈夫そうだ。

あとは男子トイレだけど、一人外に待ってたわけだしすぐには掃除出来ないかもなぁ。
そしたらちょっとだけドリンカーとか代わって、また様子見に来ようか。

なんて考えながら女子トイレを出ると、男子トイレ前からヤツはいなくなっていた。

入ったか。なんて考えてトイレのドアの表示を確認すれば、入り口の取っ手の上部は青くなっていて。人が入っていれば赤になっているはずなので、ヤツはどうやらもう出たようだった。

あれ?やけに早いなとは思った。でも女子トイレを掃除している間に男子トイレが空いているなんて私からしたら理想的な展開だ。

なんの疑問もなくドアをノック。

「失礼しまーす」

万一鍵をかけ忘れたお客さんがいた場合に困るので一応声かけまでしてから、戸を開ける――と、

「…………きゃっ」

途端、開いたドアから伸びてきた手に手首を掴まれて、無理矢理中に引き込まれた。

「えっ!?」

思い切り引かれた所為でバランスを崩した私は、前方に倒れこんで。

ガチャリ、と肝の冷える音がした。

なんとか立ち上がると、目の前には、

「ミョウジ……さん……」

その背筋の寒くなるような視線を惜しげもなく注いでくる、ヤツがいた。

「あ、の……お客様、申し訳ございませんっ」

ヤバい。全身が警鐘を鳴らしてた。
戸を見れば、私が転んだ隙に完全に閉められていて、鍵も閉められた音がした。

何より、こんな狭い空間で相手にドア側を占拠されていたら私が力ずくで抵抗しても恐らくは戸は開けられないだろう。

「あの、お客様……」

目の前の男が怖かった。
ヨレヨレのTシャツを着て、にたにたとさっきから何かをつぶやいている男が。

でも、怖くて声が震えるし何より目の前の男を刺激してしまったらこんな密室で何をされるのかわからない。

その懸念が、いつも気丈に振舞っている私にもどうしようもない恐怖をもたらしてた。

「あ、あのっ……すみません、入ってらっしゃるとは思わず申し訳ありませんでした。すぐに出て行きますので!」

手足がもう笑っちゃうくらい震えてて、

「……行かせないよ」

そうやって手を伸ばしてくる目の前の男が怖いのに暴れることも出来ずに逃げ場などない壁際へ後ずさるだけ。

やばい。どうしよう。
逃げ場を完全に塞がれてる。トイレ上部に辛うじて人が通れるくらいのスペースはあるけど、そんなとこまで登る間この男が大人しく待っていてくれる筈がないし、ドアを外から開ける手段もないわけじゃないけど専用の鍵がいる。
しかもそんなの奥の事務所だし店長しか詳しい位置を知らない。

「やっとふたりきりになれたんだ。さっき他の男と話してたね。知ってるよ、君は用心深くてその辺の男には心なんか開かない。……僕以外には。……困ってるんだろ?言い寄られて。大丈夫僕が追い払ってあげるから安心してね」

男……?うちの店にはホールの係に男は店長しかいないから、店長でないなら西谷のことだ。
話してたところを見られてたのかな。

なんて思いながらも、男の様子が明らかにおかしいことにより一層恐怖を煽られた。

この人、多分妄想と現実の境目がよくわかってないんだ。

なんて、心の何処かが冷静に分析するけれど、どうしよう。
トイレは客席から少し離れたところにあるし、従業員も私が掃除しに行ったと知っているからおそらくは誰も来ない。叫んで誰も助けに来なかったら、終わりだ。

だったら、説得を試みる方がまだ可能性があるかも。

「あの、話すなら外で話しませんか」

もしかしたらなんとか機嫌を伺って、隙を見れば……なんて、思ったのが間違いだった。

「行かせないって言ってるだろぉお!」
「やぁっ!」

先ほどから少しずつ詰められていた距離は、遂に手の届く距離になっていて。

男の手に手首を掴まれて、そのまま私は壁へ押し付けられる。

ギリッと握られた手の力が思っていた何倍も強くて。

「やめて……っやだ!離して!!」

恐怖に縮こまっていた喉を振り絞るように、悲鳴が漏れた。

と、その時、

「ナマエさん……っ!?」

ドアの外から声がした。

「ナマエさんなんスか……っ!?」

その声は、私をいつも窮地から掬い上げてくれる、ヒーローの声。

その声を聞いた瞬間、なんでだろ。

「つ……すけてっ!西谷っ!」

こんなに怖い目にあっても一滴もこぼれなかった涙が、西谷の声を聞いた瞬間、一筋頬を流れ落ちた。

「無駄だよ……ミョウジさんは僕と、」

そんな私と西谷の会話に、勿論目の前の頭のおかしい男が無反応なわけがない。

「え、やっ!」

男は血走った目で私の上着の裾に手を伸ばして――、絶体絶命って瞬間、頭上から降ってくるのは、

「こんの!くっそ野郎がぁあ!!」

小柄な身体に逆立てた黒髪。私を世界で唯一安心で泣かせられる男。

「おぅらー!!」

前髪のメッシュが今日もかっこいい。
西谷夕。私の好きな人だった。




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