顧問となる天ちゃん先生に水泳部設立の条件として課されたのは、自分たちでプールの修繕をすることだった。
何年間も使われておらず、放置され荒れ果てた大きなプールを綺麗にするのはとても大変だけど、でもこうしていろいろと意見を出し合いながら皆で何かをするという作業が、俺は結構嫌いじゃない。
今日はようやく生い茂っていた膨大な量の雑草を抜き終えて、様々なもので汚れきったプールをいざ磨こうというところ。ところどころ壁に入っている亀裂は、今度の週末に天ちゃん先生に車を出してもらって、ホームセンターで道具を買い揃えて直すことが決まっている。そうだ、古びて錆が剥き出しになってしまっているフェンスもペンキを塗りなおしたいなあ、なんて考えながらプールサイドをデッキブラシで磨いていると、入口の方から大きな感嘆の声が聞こえた。あの声は、渚だ。
一体どうしたんだろう。デッキブラシを動かす手を止めて、更衣室の向こうの入り口へと振り返る。プールの中で同じくブラシを動かしていた手を止めたハルと顔を見合わせていると、渚が興奮した様子で勢いよく男子更衣室の扉を開けて飛び込んできた。
「ハルちゃん、マコちゃん、見て見て! こんなのが入り口にかかってた!」
なんだなんだ、とハルと一緒にそちらに近寄りながら渚の手元を見れば、その右手にはビニール袋が握られている。中には何かが入っているらしい。渚は嬉しそうに頬を緩ませながら、「差し入れみたいだよ、人数分入ってる!」と無邪気に笑っている。
「差し入れ? コウちゃんから?」
「うーん……でも今回のは江ちゃんからじゃなさそうなんだよねえ」
「何でそんなの分かるの?」
「だって江ちゃんだったら入り口にかけたりなんかしないで、僕たちに直接もってきてくれるじゃない? それにさ、」
ほら、と渚が開いた袋を覗き込むと、そこには、おどろおどろしい色のパッケージをした紙パックのジュースが入っていた。それもちゃんと人数分、三本。
あれ、これって。
ハルの方を見れば何だか嫌そうに眉間に皺を寄せていて、あはは、と苦笑する。パッケージのあまりのおどろおどろしさから「このジュース飲めるのかなあ、」と真面目に考えていた渚が、俺たちの顔を交互に見て、それからまたこてんと首を傾げた。
「ハルちゃんたち、このジュース知ってるの?」
「……俺は知らない」
「あはは、まあハルはあまり購買行かないからね。このジュース、購買限定のヤツなんだよ。でもパッケージがこれだから、ほとんど買う人もいないみたいだけど」
「へええ! あ、でも味はどうなの?」
「んー、まあ美味しいんじゃないかなあ」
えー、マコちゃん飲んだことないの? と渚が残念そうに頬を膨らます。その幼い仕草もサマになってしまうんだから渚はすごいなあ、なんて見当違いのことを考えながら、袋の中から一つをハルに渡して、もう一つ自分の分を取る。買ってきたばかりなのか、冷たい結露が手のひらを濡らし、大きな水滴が手首を伝う。
渚を挟んで向こう側のハルが、ジト目で訴えてくる。
お前が知ってるのは、それだけが理由じゃないだろ。
細い眉が吊り上がり、揺れる水面の瞳が呆れたように細められる。やっぱりハルには全部お見通しみたいだ。その視線に曖昧に笑って返すと、ハルは小さくため息を吐いた。
そう、このジュースを実際に飲んだことはない。でも毎日隣で見てるから、飲んだこともないのにとても身近に感じるのだ。やたらと目立つこのパッケージを何の躊躇いもなく毎日手に持っている人物が頭をよぎる。
パックにストローを差して、パッケージとにらめっこをしている二人よりも一足先にジュースを飲む。
「あ、美味しい」
どこか禍々しさすら感じるパッケージとは打って変わったさわやかな酸味は、疲れた体によく染み渡った。ほとんど毒見役になった俺に続いて、二人も恐る恐るストローに口をつける。すぐに二人の表情もぱっと明るくなったから、どうやらお気に召したらしい。揃ってジュースを吸う二人を微笑ましく思っていると、あ、と渚がストローから口を離して声を上げた。
「そうだ、あのね、差し入れがかかってただけじゃなくて、外に置いてあったごみ袋がなくなってたんだけどハルちゃんたち知らない?」
「え、あの重いやつ?」
「そうそう」
ぱっとハルと顔を見合わせるが、どうやらハルも知らないらしい。ということは、間違いなく、このジュースを差し入れてくれた人が運んだことになるわけで。でもあの袋、雑草がみっちり詰まってたから相当重いハズなのに……。
途端に申し訳なく思う俺に、渚がきょとんと目を丸くする。
「マコちゃん、何か知ってるの?」
「んー、まあ、ね」
へらりと笑いながら濁しつつ言えば、渚はえー、と真相を聞きたいのか拗ねたような顔をして身を乗り出してくる。そういえば、渚は面識あるんだっけ。貰ったのだと言ってこの間部活動申請書を持ってきたことを思い出す。でも、口にする気はなかった。
そんな心情を察してくれたのか、また小さくため息を吐いたハルが渚の服を掴んで、くいと引いた。
「早く続きやるぞ」
「えー! ハルちゃんは気にならないの!?」
「ならない」
きっぱりと言い切ったハルに、渚がまた不満げな声を漏らす。そんな渚にお構いなしに、ハルはプールへとぐいぐいと渚を連れて行く。一瞬こちらを振り返ったハルにありがとう、と視線で伝えたら、ふいとまた正面を向かれてしまったけれど。
手元のパックに視線を落とす。時たま、俺の前に姿を現さないままに背中を押してくれる透明人間さん。小学生のあるときを境に現れた優しい人の正体を、俺は密かに知っていた(多分、ハルも気付いている。ただし本人は全く関わる気なんてないらしいけど)。でも彼女が知られたくないのなら、俺からどうこうしない方がいいのかもしれない。そう思って何年も過ごしてきたけど、でも、些細なお礼くらいはしたっていい筈だ。
飲みかけのパックジュースを端に置いてデッキブラシを手に取りながら、帰りにコンビニに寄る計画を立てる。一体何がいいかなあ。俺が好きなチョコレートでもいいかなあ。そうだ、それだけじゃ物足りないから、蘭から何かかわいいシールを貰おう。贈り物を考えるのは存外に楽しい。
ふふ、と無意識に笑みを漏らしながら、よし、と気合を入れなおす。まずは、目の前のノルマをクリアしないとね。
昼休みが終わったらまた隣。きっとあの子は、また何もなかったかのように笑うんだろう。
ああ、早く明日になればいいなあ。眩しい日差しの下、そんな照れくさいことを考えた。
翌日、机上のチョコレートを嬉しそうに口に放り込む安土さんに、口元が緩んだ。チョコレートに詰めたいつもありがとうの気持ちが、彼女に少しでも届けばいいなあ、なんて。
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20130822
201906 加筆