俺が目を閉じた瞬間。化け物は狂ったような咆哮を上げ、それから何故か俺の首を締めていた両手を外した。突然、入ってきた酸素に驚いた肺が悲鳴をあげ、俺は思い切り咳き込む。ぜえぜえ、と首を押さえて必死に呼吸を繰り返す。ぼやけた視界に、男が頭を抱えて俯いている姿が目に映った。

「嗚呼!嗚呼!何故、出来ぬのだ!何故、私はお前を殺めることを躊躇う!何故、あんなに恨んでいた筈のお前を、殺せぬのだ!」

それは血を吐くような悲鳴であった。俺は呆然と化け物を見上げる。生きている、という事実を受け入れるのに少し時間がかかった。

化け物は真っ白な髪の毛を掻き回し、何故だと自問し続けている。空を仰ぎ、咆哮を上げ、顔を両手で覆うその姿は悲痛そのもので、今さっき殺されかけたことも忘れて、俺はずきずきと痛む胸を押さえ、男へと手を伸ばした。

顔を覆う手に触れる。余りに冷たい手だった。化け物は一瞬、びくりと震え、ゆっくりと顔を覆っていた手を外す。俺を見る目が揺れた。そうして暫らく俺をじいっと血のように赤い瞳で見つめ、ああ、と溜息のような声をもらす。

「…私は畜生に堕ちても尚、お前を愛おしく思っているのだな」

化け物は唇を噛み締めてから、先程までの強い憤りなど感じさせないような、悲しい声でぽつりと囁いた。そうして倒れたときに打ち付けた額を撫でられ、頬を伝った涙の跡を拭われる。

「…お前は知らぬだろうが、私はお前をとても大切に、そしていとおしく思っていた。毎日、毎日、お前は孤独だった私の元を訪れ、大切なものを置いていった。いつしか私はお前が来るのを待ちわびるようになった。お前の幸せをひたすら願う日々のなんと幸せだったことか。…人がいつか離れていくことなど知っていたのに。」

化け物はくしゃりと端正な顔をしかめると、ほろほろと涙を流した。流れた涙は頬を伝って、俺の顔へとこぼれ落ちてくる。俺はそこで漸く、聞こえていた鈴の音が俺が遠い昔に祖母にもらい大切にしていた鈴のものだと思い当たった。

「お前、本当にあの狐なんだな…」
「ああそうとも。今じゃただの畜生でしかないが、私は確かに狐の石像に宿ったものだった」

俺はそっと泣いている狐の頬を撫でた。狐は気持ち良さそうに悲哀に染まった目を細める。俺は思わず恐ろしさも忘れて狐の頭を抱き締めていた。

「…俺は、ことあるごとにあんたの所へ行ってたな。どんぐりとか、花を摘んで。…初めてあんたを見たときに一人きりで寂しそうだって、そう思ったから。」

俺はそう言いながら昔のことを思い出していた。一人で、時には祖母と二人で俺は狐に会いに来た。鈴は確か、祖母が亡くなった日に狐に供えたものだ。祖母が大好きだった俺は、葬式を抜け出して、狐の傍に座って泣いていた。ちりん、ちりんとポケットにいれていた鈴がなるのが余計に寂しくて、俺は宝物だった鈴を狐にやったのだ。

『お前はいなくならないでね。急にいなくなったりしないでね。この鈴をあげるから、ずっと一緒にいて』

そうだ。俺は確かにそういって、そうしてそのあと別れも告げられないまますぐに両親に連れられてこの村を出ていくことになった。俺は狐を抱き締める腕に力を込めて、目を閉じた。

「俺があんたを縛ったんだな。それがどんなにあんたを傷つけるか知らずに。…なんで俺は忘れてしまったんだろう」

悲しくて苦しくて涙が出た。割れて頭部だけになった狐が目に浮かぶ。子供の頃のこととは言え、俺の言葉が守り神だった狐を化け物へと落としたのだと思うと、つらくてつらくて堪らなかった。

「何で泣く?私が踏んだ背が痛むのか」
「違う。後悔しているんだ。俺はずっと一緒だなんて言うべきじゃなかった」

流れ出す涙は、さっき俺の顔に堕ちた狐の涙と混じって、地面へと落ちていく。狐は俺のうでの中から抜け出すと、「泣くな、泣くな」と言って俺の涙を優しく舐めとっていく。

「お前が泣くとつらい。つらくて胸が張り裂けそうだ。…化け物に堕ちた私にもまだ、このような気持ちが残っていたのだな」

俺をあやすように狐は優しく俺の頬を撫でて、自嘲するように笑った。そうして、狐は立ち上がる。

「立て。日が落ち、守り神を失ったこの森には、お前にとって恐ろしいものしかいまい」

狐は俺の腕を引っ張って立たせようとするが、背中の痛みに顔をしかめる俺に気づくと、労るように俺を抱き上げた。ひょいと簡単に横抱きにされた俺は慌てて狐の首に掴まる。俺がしっかり掴まったことを確認すると、狐はゆっくりと歩き出した。






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