数人掛けのソファに身を並んで預け、ヒリヒリする頬に絆創膏を貼ってくれるのはおれの母さんである。名前はなまえ、とても素敵な名前だ。勿論名前だけじゃない、凄く優しくて、母さんが笑顔になるとおれまでつられて嬉しくなっちゃうぐらいにはおれは母さんが大好きだ。
…マザコンであるのはとっくに自覚している。
「今日も頑張ったね、クオレ。…はい、おしまい。」
「ありがと母さん。」
「はあい、どういたしまして。頑張るのも大切だけど、根を詰め過ぎないでね…?」
「うん。その辺は弁えてる…つもりだ。」
そう言ってから手当てされた頬を撫でると僅かにピリリとした。別に下手なドジを踏んだという訳では無い。
…これは父につけられたものである。
「手加減しないからな、父さん…」
「投げ飛ばされた時凄い音してたもの。背中は大丈夫?」
「へいき。」
別に喧嘩した訳でも無い。体術の稽古、ただの組手である。だが脳裏に浮かぶのは嫌らしいしたり顔の隈男だ。
「そんな心配しなくても大丈夫だからさ、母さんそんな顔しないでくれよ。」
母さんは優し過ぎるくらいに優しいからおれが怪我をすると、いつもこうして心配して手当てをしてくれるのだ。『痛かったら言ってね…?』と柔らかな掌でおれを安心させる様に声を掛けてくれる。
…因みに父は外科医、なんて言われてるがおれが怪我なんぞした日には『堪えろ』の一言で消毒液を荒々しくぶっかけてくる。
…あれはクッソ滲みた。
「あの性格破綻者め…」
「?」
思えばそんな『イイ』性格のあの隈男とこんな穏やかな母さんがどう出会ってどう結婚まで行き着いたのか甚だ疑問では、ある。
「…まさか脅されたんじゃ…!」
「クオレ?」
父さんは『海賊』であるから何処かの町から母さんを攫って無理矢理…なんて大いにあり得る。おれが出来たから母さんは父さんと一緒にいる事を選んだのか、なんてどろりとわだかまりが心中を支配していった。
「…クオレ、こっちにおいで?眉間に皺が寄ってるからね。」
目尻を緩めた母さんに言われたまま傍に寄ると眉間をそうっと撫でられる。
「伸びろー伸びろー。…どうしたの?難しい顔になってる。」
母さんは何処までも柔らかな人だ。感情に逆らわずに寄り添い、薄い肩に頭を乗せると何も言わず、そのまま髪を梳いて撫でてくれる。
「…母さんはさ、どうして父さんと結婚したの?」
その柔らかさに負けて、気が付けば思いをオブラートに包まずに口にしてしまっていた。あ、と我に返ったがもう遅い。
「んー…とね、」
おれの予想が当たってしまっているのなら母さんを泣かせてしまうかもしれない、と服を握る手を硬くしたが。
しかし母さんは少し考える素振りをすると意外にも頬を赤らめていた。ふふっと声に出して女の子の様に照れて小声で話す。
「そう言えば、話したことなかったね。…なんだか照れちゃう、聞きたい?」
「うん。」
「何から話そうかなぁ…いろんな事がたくさんあったから。」
「…母さんってそもそも海賊だったのか?」
「ううん。寧ろローが海賊だってことすら最初は知らなかったの。」
「海賊って知らなかったのか?」
思わず驚いて顔を上げると、そうだね、と笑われる。
「…元々身近な存在じゃなかったから。凄く怖い人達、とだけしか。」
「じゃあ、なんで?そんな『怖い』やつと結婚したんだ?」
「…だいすきに、なっちゃった、から…。」
頬を染めた母さんは初恋をしている少女の顔であった。寄り添っていた温もりがより一層温かくなるのを感じる。
「…『海賊』でもこの人について行こうって思ったの。…そうだなぁ…心臓をあげたくなるくらい好きになっちゃった、って気が付いて。」
しみじみと何かを思い返す様に目を閉じた母さんはそれからおれを再び優しく撫でてくれる。
「守られる立場だけどあの人を、ローを守りたいって思ったの。…だから一緒に、ずっといたい。」
とても、本当に。綺麗な微笑みだった。母さんがこの時の顔になるのは決まって父さんに関わる時だ。
…なんだかんだ結局惚気られてしまった。どろりとしたものが拍子抜けして萎んでいくのがわかる。ある意味、悟ってしまったというか、いやはや流石おれの母さんと言うべきか。
「ローと出会えたから、クオレにも出会えたんだね。…私達のところにきてくれてありがとうね。」
「かあさん…」
思い掛けない言葉におれも照れて、いつくしむ様に伸ばされた母さんの掌を待っていた、のだが。
「おれのおんなに手を出そうとはイイ度胸だな、」
「げ、」
「ロー。」
ぱしりと手を掴まれた母さんは少し目を丸くして見下ろしてくる父さんを眺めていた。何時の間に、と思うがこの表情からしてだいぶん前からおれらの話を聞いていたのだろう。少しイライラしている。
父さんは例え息子だろうが母さんが他の男と同じ空間に居ること自体を病的なまでに嫌っている。
「見てたのか…趣味がいいよな全く…」
「え、え、きいてたの…っ、」
「まあな。中々に情熱的で…キた。」
「っ!…もぅ…っ、」
「なんだ誘ってるのかなまえ?そんな顔して…」
「クオレの前で…っ、」
「こいつの前じゃなきゃいいのか?」
「〜…っ、」
「ソソる、その顔、」
体を屈めた父さんに耳元で囁かれて、顔を今度こそ真っ赤にしてしまった母さんは涙目だった。それをこれ以上なくしたり顔で機嫌よく見ている父さんに抱いてはいけない感情を抱いてしまう。
「息子の前で、いい加減にしろよトラファルガー・ロー。」
「なんだ?トラファルガー・クオレ。おれのもんが欲しいのか?」
「…クソ野郎。」
「ふたりとも…っ、」
困り顔の母さんをあろう事かヒョイと抱き上げると父さ、トラファルガー・ローは厭らしく笑う。
「なまえ、こいつばかり見てるんじゃ無ェ。」
「んぅ…っ、」
「…ン、」
居た堪れない水音がしている、こいつ息子の前でキスしやがった。しかも軽いやつじゃ無いだろうこれ。
…まあ何時もの事だけどな!
「もぅ、もう…っ、」
「くく、」
したり顔再び。そうしてから唇を母さんから離すとおれをやっと思い出した様に見て片方だけ口角を上げた。
「羨ましいか?」
「…、」
「だったらおまえもイカレちまうぐらいのいいおんなを見つけろ。なまえはおまえの親である前に、おれの『おんな』だ…なぁなまえ…?」
「…た、しか、に、素敵な子がクオレと出会って、くれたら嬉しい、けど…っ、ローそうじゃなくて、」
「恥ずかしいのか?」
「わかってるくせに…!」
「堪らねェな…そのなき顔の所為だ、」
「ロー…ッ、」
いろんな事を言いたい母さんだが完全に父さんのペースにのまれてしまっている。ふるふると父さんの腕の中で縮こまるその姿はまたしても少女の様に見えた。
「おれに狂ったからなまえはおれのもんになった。だろう?」
「ぁ、」
そう言ってから邪魔するなよ、とだけ惚気を言い残して母さんを連れ去ってしまった。…あのしたり顔で。
「あぁ、似たもの同士だよ全く…、」
あぁ、しってるさ、お互いがベタ惚れなのは物心付く前から知ってるよクソッタレ。
おれのこの心情、間違っては無い筈だ。