この話には物語九章(主に「朝比奈と親しみ慣れた悪夢」)のネタバレを含みます。
九章まで進んでいない方は読まないほうが賢明かも知れません。
いびつに歪んだ空間は、色彩もおぞましかった。それを何色といえば正確に表せるのか、三宮にはわからない。暗いかと思えばやたら明るい色が伸びていたり、無軌道に混ざり合っていたりする。
まるで幼い子供の拙い落書きのような世界だ。邪念に塗れているぶん、いっそう汚い。
世界には、女の声が響いている。恨みがましい、聞くに耐えない醜い声だ。声は、幾度も反響を繰り返しながら三宮に近づいてくる。
何もかもがひしゃげて歪んだ場所で、ただその声の主の姿だけは正常だった。きちんと、人間のかたちをしている。――彼女の、鬼そのものの形相を除いては。
三宮はあの女を知っている。女はかつて、それは美しい人だった。顔立ちも、声も。それが醜い激情に支配されて、すっかり生きた鬼になってしまっている。
鬼の顔の女は、すぐに三宮の眼前に迫った。いつもよりも来るのが早い。きっと今日は、最初から距離が近かったのだろう。
女は三宮への恨み言を吐き出しながら、三宮の肩を掴む。ぎりと食い込む爪は、彼女の憎悪の強いことが知れた。
「――っ!」
掴まれた肩から伝わる体温がたまらなく不愉快で、三宮はとっさに女の手を振り払った。
「痛っ……!」
瞬間、男の声が女の姿を掻き消す。女が見えなくなるのと同時に、世界はただの暗闇になった。
三宮ははっとして目を開ける。見慣れた寝室の天井が、視界を占領した。
(……夢か)
橘の母親が動いていることを知ってから、毎日見る夢だった。なのに、三宮は目覚めるまであの悪夢を夢だと認識できない。
ふと近くに人の気配を感じてそちらを見ると、山野井が手を押さえて立ち尽くしていた。青い眸の瞠目からは、驚愕と当惑が窺える。三宮と目が合うと、山野井は安堵したように息を吐いた。
「万里――……」
「……俺に触れたか、山野井」
「え、ああ……うん」
三宮は山野井の手を見ながら聞く。山野井は視線の先に気付いてか、隠すように後ろで手を組んだ。
「起きてこないから起こしにきたんだけど……。そうしたら、万里、うなされてたから」
「……そうか」
気遣わしげに見てくる山野井に、三宮は内心で舌打ちする。
――山野井には、あまり弱いところを見られたくなかった。防御面を考えて弱点を見せたくない、というのではない。男としての矜持だ。山野井の前では、三宮は弱さのない人間でいたかった。
「大丈夫?」
「ああ」
頷いても、山野井の顔から心配の色は消えない。
山野井はしばらく眉を寄せて三宮をじっと見つめていたが、やがて小さく溜め息をついた。
「朝食、用意できてるから。早く来てね」
三宮が返事をするより先に、山野井は身体を反転させてしまった。三宮が本音を言うことがないと判断したのだろう。果たしてそれは正しい。
山野井が寝室から出て行くのを見送って、三宮は洗面所に向かう。冷たい水で顔を洗えば、心は少し安定した。
身なりを整えてからダイニングルームへ入ると、すぐに山野井が朝食を出してきた。スクランブルエッグにベーコン、クロワッサンとサラダという比較的軽いものだったが、三宮はあまりしっかりと食べたくない気分だったので丁度いい。
「エリサは?」
側に控えた山野井に訊ねる。
「エリサちゃんだったら、もう登校したよ」
「――自分から? 珍しいな」
橘や三宮が急かして、それで渋々登校するのがエリサの常だった。
やや瞠目していると、山野井は何故か微笑ましげに笑んだ。
「体育、サッカーなんだって」
「……なるほど」
ではエリサは、芹沢の張り切る姿を見に行ってやったのだろう。飴と鞭をしっかりと使いこなしているようだ、と三宮は口端を上げる。
かわいいね、とでも言いだしそうに目元を和らげている山野井は、そこに好意以外の思惑があるとは思ってもみないだろう。
三宮は山野井と軽く話をしながら朝食を進めた。食後には山野井がコーヒーを淹れてきて、静かに口に含んだ三宮は普段より穏やかな味にほうと息を吐く。
山野井には山野井なりのプロファイルがあるらしく、沈んでいる気分のときにはこういう味がいい、というような判断でコーヒーを出す。そしてそれはほとんど正確だ。少なくとも三宮に対しては、間違っていたことがない。
三宮がちらりと山野井を窺うと、彼は安堵したような、嬉しそうな顔をしていた。
「――どうした」
「ん……役に立てたかな、って思って」
「……そうだな」
三宮は素直に認める。悪夢のせいと、無様を見られてささくれ立っていた心を慰めたのは間違いなく山野井だ。
「よかった。……俺は御園さんとかみたいに、万里の仕事のほうにまで役に立てる能力ってないから。朝比奈さんみたいに、護れるわけでもないし」
山野井は立場を除いて三宮と比べるなら、護られる側だろう。三宮は一通りの武術を嗜んであるが、山野井はそうではない。
「だから、すごく嬉しい……です」
わずかに頬を赤らめた山野井は、誤摩化すように敬語を取ってつける。
三宮は山野井の恥じらう姿に口角をつり上げ、隣に立つ山野井の腰を引き寄せた。
「褒美をやろうか、山野井」
そのまま膝の上に座らせて耳朶に囁くと、山野井は苦笑した。
「もう大丈夫みたいだね」
「そう。だから、御褒美をやるよ」
三宮はしっかりと背中から山野井を抱きしめて、彼の耳殻に唇を寄せる。
だんだんと耳の縁を伝い降り、三宮は山野井の首筋に鼻梁を埋めた。息を吸い込めば、優しい香りが鼻腔に広がる。
穏やかな存在を堪能していると、ふいに山野井の手が三宮の手の甲をそっと撫でた。
三宮は身体中に触れるぬくもりに目を閉じる。いたわるように手を撫でてくる山野井の体温が、三宮のすべてを凪がせるほどに心地よかった。これは絶対に手放してやらない、と思わせるまでに――。