二十年近く振りに見た外界は、空に娑婆の記憶がほとんどないせいで、まるで新世界だった。
 どこかに囲われるのだろうなと思っていたけれど、三宮は驚いたことに空を本宅に住まわせるという。一族の人間がうるさいので、執事の一人として、という建前をつけるといわれた。
 それは別段構わない。何もせずにただ養われるだけ、というのも少し居心地が悪いから、邸内で役割を与えてくれるというのはありがたかった。
 それよりも驚いたことは、三宮に連れてこられた邸に、浅葱の出迎えがあったことだった。
 浅葱はあの噂を、空が三日月に遊ばれ終わったころに芹から聞いたらしい。空が誤解しているだろうなと思ったけれども、すぐに夜見世の準備に入らなければならなくて、噂を否定しに訪えなかったという。

「ほんと、俺がご主人様に身請けされるとか、冗談じゃないですよ」

 キッチンの台を磨きながら、浅葱は舌打ちしそうな勢いで吐き捨てた。空は相変わらずの態度に苦笑する。

「でも、なんとなくご主人様への態度、柔らかくなってない?」

 空も浅葱も、建前上――浅葱は本当にそうだが――執事として邸にいるので、三宮をご主人様と呼んでいる。空は夜だけは名前で彼を呼ぶけれど。
 使い終わったコーヒーカップを洗いながら指摘すると、浅葱はやや気まずそうな顔をして肩を竦めた。

「そりゃ……身請けの金、半分出してくれたし。そのおかげで吉原出れたし、瑠加と暮らせてるわけだし……」

 連城瑠加というのが、浅葱が約束した少年だ。浅葱と同じ年頃で、いまはロードレーサーだという。空は一度会ったことがあるが、なんとも真直ぐな青年だった。身請け金を全額自分で用意できなかったのを不甲斐無く思っていて、何としてでも三宮に返済すると息巻いていた。
 浅葱にとって、借金があるから三宮の邸で働いているという現状は、場所が吉原から三宮邸に変わっただけで、吉原での生活と何ら変わりない。けれど見世と違って男に足を開かないでいいし、自由に出かけられて休みもある。それに連城もいるから、何の不満もないらしい。敢えて言うなら、三宮を主とあおぐことは気に食わないそうだが。

「それにしても、よく空さんはご主人様に惚れましたよね」
「え、だって優しいし……たまに意地悪いけど」
「優しい? ――どこが! 人の嫌がる顔見て面白がってるような人間の!」
「それは……まあ……」

 フォローのしようがない。洗い終えた食器の水を切りながら、空は苦笑する。

「けどちゃんと、不機嫌でも怪我しないようにしてくれるし……」
「……機嫌悪かったら無理矢理突っ込むと思ってたんですけど」

 意外そうに言う浅葱に、空は目を瞬いた。

「え、そうされたんですか?」
「まさか。そもそも俺、あの人と同衾したことないですから」
「――え?」
「あ……嫌がらせの一環で悪戯はされたんですけど、同衾まではしてないです。女に不自由しねーのに、何でわざわざ男を抱かなきゃならねーんだ、って」
「え、え……でも俺」

 三宮が馴染みになって初めての同衾で、三宮は空の身体を暴いた。以降、三宮が登楼すれば必ず情を交わしていたから、浅葱の発言は空には信じがたいことだった。

「避妊しなくていいのは楽だけど、濡れないからめんどくせえとか言ってましたよ」
「けど……え……」

 磨き終えた台を眺めて、満足そうに浅葱は頷く。調理台は、差し込む陽光を綺麗に反射していた。
 それから浅葱は空に向き直る。

「あの人にとんでもなく似合わない言葉ですけど、その面倒をおしても抱いてたってことは、ご主人様、空さんのこと――」
「空」

 浅葱の言葉を遮るようにして、三宮がキッチンを覗き込んだ。食堂から顔を覗かせている三宮は、浅葱をちらと一瞥してから空を見る。

「――コーヒー。書斎に持ってこい」
「あ、はい……」
「浅葱」
「はい?」
「余計なこと言うんじゃねえ」
「はい、はい……と。失礼いたしました、ご主人様」

 浅葱の余裕ぶった態度に、三宮は舌打ちをしてから踵を返す。
 残された浅葱と空は顔を見合わせた。三宮の足音が聞こえなくなったころに浅葱は吹き出し、空は手で口元を覆って頬を赤らめる。
 浅葱の言おうとしていたことを察せないほど、空は鈍くない。そしてあの三宮の態度で、言葉にされなかったことはほとんど証明されてしまった。

「顔、真っ赤ですよ」
「……わかってます……」
「早くコーヒー持っていかないと怒られますよ」
「わかってる……」
「ご主人様、かなり空さんのこと好きですね」
「い、言わなくていいから……!」

 慌てて両手を押しあてて浅葱の口を塞ぐと、浅葱は、ふは、と楽しげに笑った。――見世にいたころでは、考えられない笑顔だった。
 浅葱は空の手を外して、くるりと背を向ける。

「それじゃ、俺は次の仕事にかかりますから」

 瑠加に会いたいな、と呟きながら、浅葱はキッチンから出て行った。
 空は浅葱の背中を見送ってから、調理台に寄りかかって天井を仰ぐ。
 ――今夜、試してみようか。三宮から愛の言葉を聞き出せるかどうか。
 きっと成功させるのは至難の業だろうけれど、今夜うまくいかなくても、時間は存分にあるのだ。
 企みなら、何十年とあるこの先の人生の中で成功させればいい。
 これからはずっと、三宮の側にいられるのだから。


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