「何があっても俺は丙(ヒノエ)と結婚するんだ!」

それは遠い記憶の中で、唯一色褪せず強烈な光を放っている言葉。
オメガ性に生まれ、人生を悲観し諦めていた丙にとって、この上ない救いであり拠り所になった光景でもある。
小さな背中をこちらに向けて立ちはだかり、歪みなく真っ直ぐなその言葉を聞いた瞬間、彼は丙の世界になった。彼のいない世界で丙は生きていく事が出来ないだろう。
それ程までに丙にとって彼は大切で大きな存在なのだ。














卯月丙の一日は、八割方専用の着信音から始まる。
人よりも硬い赤茶の髪を櫛で撫でつけ落ち着かせ、慣れた風にお仕着せの制服に身を包み、歯を磨き顔を洗って部屋を出る、その間わずか十分にすら満たない。
それなのにだらしない所の一つさえないのだから、彼の所作には恐れ入る。
その上、数十秒後には車のエンジンをふかし、屋敷さえも出ているのだ、並の人間ができるような事ではない。または恋は盲目とでも言うべきか。
彼は胸を踊らせて、指定されたホテルまで公道をひた走る。

「銀司様、御所望のお着替え、こちらに置いておきますね」

性行為の後は独特の匂いがすると思う、それは決して気分のいいものとは言えず、折角上等なホテルの一室だと言うのに、洗練されたインテリアさえも安っぽく見えてしまう程だ。

「早かったな丙、用が済んだら出ていっていいぞ」
目の前の彼、九条銀司と卯月丙は幼い頃から生活を共にする幼馴染であり、兄弟のように育った存在であり、主人と使用人でもあり、アルファとオメガである。
今はそれ以上でも以下でも無いが、幼き日にはプロポーズもしてしまう程に仲が良かった二人だ。

「昨晩のお相手も随分と可愛らしい……銀司様に抱いて頂けるなんて幸せ者ですね」

猫のようなアーモンドアイに映るのは、朝日に照らされ輝く色素の薄い乱れた髪と、逞しい胸板、それから気だるげでも彫刻のように整った美しい顔に、タンザナイトの色を覗かせた瞳……と、おまけのアバズレ女だ。

「それなら、お前も幸せ者ということになるな」
「はい、それどころか俺は、銀司様と共にあれる事だけで幸福ですよ、この上なく」

にこりと人形のように笑い一礼した丙は、目の前の光景を約一部だけ切り取って焼き付けながら踵を返すと、何事もなかったようにホテルの部屋を出た。

「…………銀くん、今日もかっこよかったぁ」

パタンと扉が閉まったと同時に、吐息と一緒に漏れたのは紛れもない本音だ。
この男、卯月丙は例えどんな最悪の状況にあろうと、九条銀司を蔑むことを良しとしない。
心底彼を好いている……と言うよりも、丙には銀司以外の存在が見えていないのだ。
例えば両親の似顔絵を描けばただのへのへのもへじになってしまうが、銀司の似顔絵を描けば、つり上がった眉や垂れた目の角度、睫毛の長さ、瞳の奥の色、髪の毛の一本一本に至るまで正確に描写するだろう。
銀司のどこが好きなのかと問われれば百パーセント全部と答えるが、その全部という言葉が想像を絶する程に重い。
だからこそこうやって、丙は自分以外を抱いていたとしても連絡一つ入れてもらえればどこにいようと駆けつける、それが例え、早朝五時の起床前に鳴る電話だったとしても、だ。
とはいえ、起こされる割合が多いというだけで元々丙の朝は早い。拠点は海外とはいえ、国の経済を支える一柱としても数えられる九条家の使用人であるし、やるべき仕事は山ほどある。だからだろうか、丙にとって早朝の呼び出しは愛しい人からのモーニングコールなのだ。

「丙、待て」

今日はまずどの仕事から片付けようかと
考えながらエレベーターホールへと続く廊下を歩いていた時だ、後ろから銀司の声がして、丙は光の速さで振り返った。
そこにはやはり既にしっかりと皺の一つさえないスーツに身を包んだ彼がいた。
いつもならば着替えが届けばベッドの中で蹲ったまま眠そうにしているというのに、いったいどういう風の吹き回しだろうか、もしかしてただ寂しくて追いかけてきてくれたんだろうかと淡い期待を抱く。

「どうかしたの銀くん、珍しいね追いかけてくるなんて」

銀くん、丙は銀司と二人きりの時彼のことをそう呼ぶ、今では世間の目もあるし、親しい者以外の前では言うことはないのだが、幸い早朝と言うこともあってか今ここは二人の世界だ。
丙は銀司の事を銀くんと呼ぶのが好きだった、特別な自分だけが呼んでいる名前、自分だけが許されているとも思えて、ちょっとした充足感にも包まれる。

「フェロモンの匂いがし始めてる、抑制剤の準備は怠るな、それからネックガードも付けておけ」

ドキリと丙の心臓が高鳴った、というのも、丙にとって三ヶ月に一度訪れる発情期は何よりも幸せな時間だからだ。
番がいないオメガで発情期が楽しみだと思うなんて、異端者か相当な好き者だけだろう。けれど丙にとっては、唯一銀司が抱いてくれる大切な逢瀬だった。
ネックガードを付けて決して番になる事の無いように予防線を張り、抑制剤で完全なるヒートというわけではないが、荒々しさと同時に舐るような熱は決して忘れることが出来ない。

「うん!今日もお仕事頑張って来てね」

彼は先ほどとは一転、友達にするようにバイバイと軽く手を振って、浮き足立った様子で今度こそエレベーターホールへと歩いていった。
一人残された銀司はと言えば、苦虫を噛み潰したかのような表情を見せると、小さく舌を打った。















「丙、いるか?」

丙が屋敷に戻った直後の事だ、彼の部屋に銀司の兄、金吾が訪ねてきたのは。

「いるいる、どうかした?朝ご飯は今から準備するつもりだけど」

返事をすると同時に部屋の扉を開ければ、金吾は安心仕切ったようにふぅっと息を吐いた。
身長は銀司より少し高いだろうか、どちらも百八十を越える長身ではあるのだが、金吾は銀司から表情や言動、全ての角を取ったかのような人間だ。
だからなのか、その似ている顔を見ると、どうしても丙は銀司に会いたくなった。

「いや、朝飯じゃない。政次(マサツグ)のつわりが酷くて辛そうなんだ」

政次、彼は丙の高校時代からの友人で、今では金吾の番であり妻だ。正直な事を言えば、いつから付き合ってるだとか、どうして付き合ったかとか、二人の馴れ初めだなんだというのはあまり詳しく知らない。ただ、丙を介して出会ったということだけは確かだった。

「じゃあいつもの飴とか水とか準備してすぐに行くから、金吾は政次に付いててあげてよ」

自分はまだ妊娠した事がないから丙はつわりがどれだけ辛いものなのか、いまいちよくわからない。
けれど、政次はオメガにしては珍しく、金吾と同じ身長を持ち、見た目は所謂ガテン系、体躯だけで見ればアルファに間違われる程の男だった。
それが、この所は毎日吐き気と倦怠感、それから食欲不振との戦いの日々で、その逞しささえ見る影もなくなっているのだから、相当のものだろう。

「助かる、じゃあ頼んだ」
「どういたしまして、五分以内には行けるから」

彼は金吾の背中にそう投げかけた。丙の使用人らしからぬ言葉遣いは、安心から来るものだろうか、きっとここに両親がいれば叱咤されている事だろう。
丙の両親も九条家の使用人だった、現当主付きの秘書と、奥様付きの使用人が結ばれ丙が生まれたのだ。
住み込み、と言うよりも、小さな敷地内の別邸で丙は育った。三人は丁度三つずつ年が違って、真ん中の丙は年の離れた金吾と銀司を取り持つ存在でもあった。だからこそ金吾や銀司に友達のように口を聞いても許される唯一の使用人であり、使用人を束ねる立場も任されている。
けれど、もう十年近く前から現当主は丙の両親含め海外を拠点にしているため、その真価を発揮することはそうありはしないのだが。

「政次、大丈夫か……?」

トントントンと、軽くノックをしつつ夫婦の寝室へと足を踏み入れる。そこにはあわあわと動揺しながら何をすればいいか探っている様子の金吾と、怠そうにベッドに横たわる政次がいた。

「金吾は少し落ち着いて、大丈夫だから。おはよう政次、吐き気があるのか?」
「はよ……今日は吐き気よか頭痛がひでぇ」

地を這うような低い声だった、丙はまず彼の額に滲んだ汗を拭き取ると、飴の封を破りコロンと一粒政次の口へ預けた。

「いつものやつ、これで少しは楽になるといいけど」

政次は元来、甘いものが嫌いだった、それが最近では一日に何度もレモンの飴を舐めるのだ。
どうやらこれを舐めると多少つわりが楽になるらしく、常に部屋には置いてあるはずなのだが、昨夜のうちに全て舐めきってしまったらしい。

「ああ……」
「それと水差し交換するから、他に欲しいものとかある?」
「ない、いまんとこ」

テキパキと慣れたように手を動かすと、毎度の事ながら金吾は関心したように息をもらした。

「俺は何かすることある?」
「まだ朝も早いし寝ててもいいよ、政次が心配ならまず落ち着いて背中でも摩ってやりなよ」

つわりが酷い時に周りで騒がれる方が悪化させる可能性もある、毎回言っているのだが、安定期に入っていない分、金吾が焦るのも仕方がないのかも知れない。
なにせ、仕事中だって時間があれば政次に電話を掛けている様子だし、昼間だって付き添いがなければ屋敷の中だって自由に歩かせるのを良しとしないのだから。

「わかった、毎日悪いな丙」
「いいよ、これも仕事だし、俺も政次の事は心配だし支えたいから」

政次は、正直な事を言えばあまり歓迎されてはいない。とはいえ、それは対外的な話であって、当主と奥方は孫の懐妊の知らせ心底喜んだし、使用人たちだって例外ではない。
元々オメガ性に対して寛大な考えの家だ、でなければオメガ性に使用人頭など任せはしないし、加えて金吾といる限り心無い言葉を浴びせられることは無いだろう。
ただ、親戚連中はといえば、何処の馬の骨かもわからない、それもオメガ性の男を九条家の御曹司が嫁にとったのだから、悪い意味で大騒ぎだった。
だからこそ、少しでも冷たい視線から政次を守る盾になりたいのだ、従者として、そして何より友として。
けれどそれ以上に金吾は、嫌悪を少しでも感じさせれば例え親族といえど容赦なく縁を切るつもりでいるらしく、表立ってそんな事をいう馬鹿はいないのだが。

「……丙も、そろそろ考えたらどうだ?」
「なんの話?」
「結婚の話、二十六歳、オメガにとっては適齢期過ぎただろ」

オメガの結婚は基本的に早い、発情期があるせいか、早々に番を作って所構わず人を惑わすフェロモンを抑制したいと考える人が多いから……というのもあるが、大体は運命的な出会いを果たしているのか、丙の年齢まで番なしでいるオメガの方が少ない。
政次だって、妊娠結婚までは時間がかかったが、二年前には既に金吾と番関係にあった。

「オメガにとっては、だから。ベータやアルファならまだまだバリバリ働いてるじゃん」
「そうだけど……丙も、発情期が辛いものだってのは痛いほどわかるし、実の弟だと思ってるのに、どこぞの行きずりの男に取られるのだけは嫌だからな」
「俺だってそれは嫌だから常に抑制剤は切らさないんだよ。それに、俺には銀くんがいるし?」

またそんな事言ってと、呆れたように金吾は笑った。金吾は銀司と丙が既にプロポーズを済ませた関係という事は知っている。けれど、それは幼き日の事であって、金吾の目には丙が偶像に縋っているようにしか見えないのだ。

「丙はそうでも銀はどうか分からない、俺としても銀と丙にはくっついて欲しいけど、いつまでも夢を見続けるわけにはいかない」

丙に幸せになって欲しい、それは彼の本音だろう、しかし丙にとっての幸せは、銀司の元でしか開花することは無い。

「おい金吾、丙は遠回しにまだいいって言ってんじゃねぇの?好きにさせてやれよ」

そう、先程よりは軽い声で政次が会話にフォローを入れた。内心丙は政次に勢いよくその通りと返したが、現実では小さく頷いて、肯定するだけだ。

「二人がそう言うなら今は止めるよ……でもな丙、俺はこれ以上発情期で辛そうなお前を見たくないって事だけは頭に入れておいてくれ」

発情期と聞いてふと思い出す、そういえば政次がつわりの周期に入ってから発情期になるのは今度が初めてだ、また金吾がパニックになりはしないかと一抹の不安は残るものの、ほかの使用人にも対応の仕方は教えておかなくてはならないだろう。

「金吾、俺多分そろそろ発情期だから少しの間別邸にいるから」
「もうそんな時期か……わかった、こちらの事は心配しないでいいから」

こうやって発情期で暇を貰うことがあっても嫌な顔一つ見せない彼はきっと貴重な存在だ。
そんな彼に誰よりも何よりも愛される政次は幸せ者だと、誰もが口を揃えて言うだろう。

「っと、もたもたしてたら朝食が遅くなるな、いつもの時間までに持ってくるよ。政次の分はいつもより軽めにしておくから」
「助かる……出来れば粥くらい柔らかくしてくれ」

丙はわかったと一度頷くと、早足でキッチンへと向かった。もうすぐ日勤の使用人達も屋敷に着く頃だろう、丙の忙しい一日は今日も今日とて本格的に幕を開けた。





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