『うっ……ひっく』

誰かが泣いている。幼い体を震わせながら、ただ静かに泣いている。

『銀くんは泣かなくていいんだよ』
『やだ!おかしいもん……オメガだからって、丙をいじめる、なんてっ』

そっとその小さな体に触れて、いい子いい子と頭を撫でた。

『優しいね、銀くん』
『おれ、まもるから……丙のこと守るから……』

またこの夢か。
丙はふわふわとした意識の中、その優しい余韻に浸っていた。
夢だとわかっているのに、ここから出たくない、目覚めたくないと心が言っている。

「……え、の……おき……れよ」

なのに、外の世界から水の中にいる時のようなくぐもった声が聞こえる度、意識は徐々に浮上していく。
その声は好んで留まる夢の中から丙を掬いあげようとしているようで、これ以上何も言わないでと思うのに、尚も必死に語り掛け続ける。
しかし、何故必死だとわかるのだろうか、目を開けたくないと望むのに、応えなくてはと思うのか。

「丙、起きてくれ、たのむ、頼むから……」

ああ、そうか、泣いているのか。
刹那、瞼が揺れる。
いつぶりかわからない光が瞳に入り、うまく目を開けられない。

「なんで、泣いてるんだよ……こうが」
「ひ、ひの、え……?」

泣くなよと笑いかけたのに、丙の掌を頬にあてた彼は、恥ずかしげもなく声を上げて涙を流し始めた。

「おれでも、目を……覚ましてくれて、ありがとう、ひのえ」

そこから先はとても慌ただしかったという記憶があった。
どこかもわからない場所で白い服を着ている人たちが、熱心に丙の体を触っていた。
ふわふわのベッドや無駄に広い室内は、彼のストレスにならないようにする配慮だろうか、人の出入りが激しく気を遣うのに、一切疲れを感じない。

「脈計りますね」
「点滴痛くないですか?」
「下半身気持ち悪いですよね、もう少ししたら外せると思いますので」

そしてその様を、隣にあった光雅は静かに見つめていた。

「丙が、起きてくれた……起きてくれたんだ」

まだ信じられないという風に、光雅は呟く。
なにがなんだかわからないまま、自分はどうしてここに、と思いだそうとしたところで、強い吐き気が彼を襲った。

「丙!?」
「ああ、そうだった、そうだったね……」

そしてようやく、自分が目覚めたくないと望んだのも、ここにいる理由も全て理解したのだ。

「……思いだしたのか」
「嘘だと思いたいけど、きっと現実なんだろう?」

体を起こしながら問えば、光雅はコクリと頷くにとどめた。

「どれくらい、こうしてた?」
「今日で六日。生きてくれているのはわかるのに、ピクリとも動かなくて、もう目覚めてくれないかと思った」

苦々しく彼は語る。どれだけ心を痛めただろうか、よく顔を見れば目の下には色濃い隈が浮かび、髭も所々伸びて、食事も取れていなかったのだろうか、ほんの少し頬がこけたような気がする。

「色男が台無しだなぁ……」
「そう思うなら、もっと早く目覚めてくれよ……」

病室に似合わない簡素なパイプ椅子に腰かけ、両の手で顔を覆い吐かれたため息。
その深さは彼の安堵を表しているようにも思えた。

「うん。心配かけてごめんな」

丙はそんな彼を数秒見つめ、自分はここにいるとばかりにそっと肩に触れる。
その時、彼の視界に壁にかかった日めくりのカレンダーが入り込んだ。
確かに、一週間近くの時間が経過しているらしい。ともすれば、屋敷を離れていた間、みんなにどれだけの負担がかかったのだろうと胸が痛む。

「俺、どれくらいで退院できそう?」
「医者は、早ければ明後日にでもとは言っていた」

金吾と政次、それに銀司。こんな状況になっても尚、丙の心は彼の元に戻らなくてはと焦燥を覚える。
それが丙にとって当然の答えだった。番として共にあれなくても、まだ、傍にいることは拒絶されていないと、そんな事実が一筋の光のように思えるのだ。
たとえ身を割かれるほどの痛みを伴う現実でも、世界を失えば丙は生きていけないのだから。

「そっか、金吾様に連絡しないと、屋敷には明後日の午後には戻れるかなぁ」

しかしそんな丙の思いとは裏腹に、光雅は彼の呟いた言葉に弾かたように顔をあげると、眉根を寄せて下げ、その胸の内を吐露するかのような表情でこちらを見た。

「なん、で……おまえは、こんなことにもなったのにっ!」

苦しい、辛い、行かないでと縋るような瞳と声。
光雅の肩に置いていた手にそっと重なった彼の掌。
壊れものでも扱うように触れたそれは、指先だけが血の気が引いているかのようにひんやりとして、けれど優しい体温だった。

「……俺の居場所はあそこしかないから」

困ったように丙は笑う、その意味をきっと彼は理解している。
決して、卯月丙の中から九条銀司が消えないのだという事を。
だからこそこんなにも恐れている。拒絶される辛さの本当の意味を知った今、彼の気持ちは痛いほどに丙の元に届いていた。

「俺の所にいればいいだろう……ッ」

震えた声が、じんわりと丙の耳に響き、ぐっと唇をかみしめる。
オメガだとわかってからというもの、丙は銀司の庇護下でしか、外の世界を知らなかった。
閉ざされた楽園、本来であれば通らされたであろうオメガとしての道も、ぬるま湯に浸かりながら見る事すらさせなかった世界、それは全て彼が与えてくれたもの。
けれどその中に異分子が表れた、他の誰でもない、赤柳光雅である。

「お前は、そう言うってわかってた……でもたのむ、頼むから、おれの傍にいて欲しい……時間がかかってもいい、でも、好きになってほしい」

ポタリと彼の膝に雫が落ちて、上等なスラックスが色濃く濡れた。
添えられた手には力が籠り、震えていて、一言で表すならばそう、怯えた子供。

「っ、泣くなよ、光雅」

その瞬間、丙の感情が苦しいと訴えた。
これ以上この人を悲しませてはいけないと、守りたいのだと、必死に訴える自分がいる。

「なら、泣かせるようなこと、言わないでくれよ……」

覚悟を決めたように、ごくりと一度喉をならし、刹那、彼は空いた方の手で光雅の流れ落ちる涙を拭った。
それが丙の出した答えだ。
怖くないといったら嘘になる、それは自分の意思で世界の外に出るという選択の、第一歩に他ならないのだから。

「こんな、こんな最低でわがままな……弱みにつけこむようなやり方しかできない、ごめん、ごめん丙」
「……お前って、ほんと不器用なやつ」

その日はゆったりと風呂にも入れてもらい、久しぶりに固形物を食べた。情報の一切は入ってこず、与えられるものだけ享受する。光雅はそんな丙に安心したかのようにずっと近くで見守っていた。

「病院食って、味しないんだなぁ」
「らしいな、少しの間だから我慢してくれ」

その二日後、彼の言った通り丙は病院を後にした。
けれど彼が九条に戻ることはありはしなかった、そのまま彼に連れられて、銀司のいる場所から去ったのだ、行き先を誰にも告げぬまま。






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