「……えっと……銀くん、今日はエイプリルフールじゃない、よ……?」

その日は朝、銀司からのモーニングコールが無かったことを除けば、普通の極普通の一日だった、週始めのせいか光雅からの連絡もなく、政次の体調も安定していて、発情期ももう少し先の、それはもう酷く平和な一日だったのだ。

「嘘じゃない、チャンスが巡ってきたんだ」

それが、突然なんの前触れも連絡も無く夜にふと屋敷内の部屋へと現れた銀司の、そのたった一言でいとも容易く全て覆された。

「もう一度言うからよく聞け、この話が上手くまとまったら、番になろう、丙」

何が起こったのかわからなかった、嵐や竜巻で例える事さえ生ぬるいと思える程の威力を持つ言葉。
丙は真っ白な空間に投げ出されたような感覚に陥った。正直な話、まだ銀司が帰ってきた事にも実感が湧いていないというのに、番になろうなんて、幾分先かと思っていた言葉を理解出来るはずも無かったのだ。

「はは……ゆ、め……?」

ふわふわする感情とは裏腹に、ガクガクと膝が笑う、自分がたった今どんな顔を銀司に向けているかもわからぬまま、丙は耐えられずその場に膝をつくと、フッと意識を手放した。

「丙!?」






『ひのえ〜?寝よ』

深夜の訪問者は、薄着のまま枕を抱え、今日も今日とて丙の住む別邸へと足を運んだ。

『銀くんてば、また屋敷を抜け出してきたの?』

扉を開けた丙はといえば、呆れたようにそう言うが、しかし上がった口角は、喜びを隠しきれていない。

『今日は二人共屋敷の方で寝るって言ってたから丙が寂しいかと思って』
『父さんと母さんがいなくても寂しくないよ、寂しいのはどっちかなー?まだ、一人で寝るの慣れないんでしょ』

九条夫妻は小学校に上がるとどちらの息子にも一人部屋を与えた。早いうちに自立を促すのはもちろんのこと、実際の所仲のいい夫婦の事だ、二人の時間も欲しかったのだろう。

『ちがうもん!丙が寂しいの!』

とはいえ、まだ幼い時分で一人寝をする子供の方はといえば、こうやってほぼ毎夜現れるくらいにはまだ人肌恋しいらしい。

『今日はもう来ちゃったからだけど、いつも言ってるようにいくら銀くんとはいえ、暗い中を歩くのは危ないよ、金吾に一緒に寝てもらうのは?』
『兄ぃはお勉強中……丙は一緒にねるの、や?』

まるで地上に舞い降りた天使の子供のような顔でそう問われて、嫌ですと答えられる人間がこの世にいるだろうか。
丙はぶんぶんと横へ勢いよく頭を振って、ぎゅっと小さな銀司を抱き寄せると、頬ずりまでしながら中に招き入れた。

『俺は銀くんに弱い気がする』
『丙は弱いの……?』
『銀くんのおねだりには特にね』

そうやって、二人は身を寄せ合い眠るのだ、翌朝バレないように眠った銀司を抱え屋敷に戻る日もあれば、そのまま寝入ってしまって大騒ぎになる日もあった。
丙にとって銀司の体温はすぐ近くにあるもので、なくてはならないものにさえなっていたのだ。
けれど何ヶ月、何年とそのぬくもりにほとんど包まれる事のなかった体は、夜な夜な温度を求める事をしなくなった……はずだった。








「起きろ、おい、丙、起きろって……なぁ、朝になるぞ」

まだ、もう少し寝せて。そう、覚醒しない意識の中で彼はそう呟いた。

「このまま寝続けたら、兄ぃと政次まで心配して起きてくるぞ……おいって」
「へんな、ぎんくん……政、つぐがここにいるわけ、ない……よ」
「丙お前、寝惚けてるな?もう政次がここで暮らして何年にもなるっつの!」

銀司は体制を帰ることはせず言葉を返す、その大きな体躯をほんの少し丸め、まるで守るように丙の体を包んだままなのだ。

「なんねん……え!?……あぁ夢、か」

混乱の中目をぱっと開いた丙は、目の前の状況にまだ夢の中にいるらしいと結論付けて、それならばと遠慮など無しに銀司へと擦り寄り首の後ろへと手を回した。

「丙……お前は俺の存在がそんなに珍しいのか、よっ!」

言いながらにっこりと笑った彼は、そっと丙の頬を両の手で撫でると、間髪入れずに思い切り摘み伸ばした。

「痛い痛いいたいいひゃい!ゆめりゃない!?」

言いながら首に回していた手を離し、己の頬をさする。随分と左右に引っ張ってくれたらしい銀司は、悪びれる様子もない。

「だーからさっきから起こしてんだろ!いい加減起きて真面目に俺の話を聞け!」

丙がしっかりと覚醒し、銀司の存在を認めたのは、それから十数分も後のことだ。それまではずっとまさかここに銀くんがいるわけがないだとか、夢じゃないなら天国か何かなんじゃと頭を抱えていたりだとか、そんな混乱を一つ一つ解きながら、銀司はようやく丙と向き合うことに成功した。
と言っても、ベッドの上、彼を抱き寄せたまま、背中をさすりようやく、というような状況なのだが。

「えーと、それで、昨日はエイプリルフールじゃないって会話をしたんだよね……?」
「違う、番になろうって言ったんだ」

まだ半信半疑といった様子の丙に、銀司は相当な労力を要したのだろう、疲れたようにそう言った。

「でも、でも銀くんまだ先だって……」
「言ったろ?チャンスが巡ってきた、それをものにすればすぐにでも丙と番になれる」

銀司の腕の中で聞かされるプロポーズにも似た言葉、既にカッカと火照っていた体はまるでそれに反応するかのように尚も体温を上げていく。

「今日休むか?流石に熱すぎるだろ」
「仕事はする!でも、体が勝手に熱くなっちゃうんだよ……!銀くんが突然素直になったりするからぁ」

顔を両の手で覆い隠しながら言うも、実際銀司の腕の中から離れたいかと問われれば答えは否だ。
いつもならば今は銀司に着替えを届けに行っている時間だろうか、それもここ数日は電話すらなく、ゆっくり眠ってはいたのだが。

「兄ぃと少し話したんだよ、丙の事で。ところで、何か変わったことは?言うことはあるか?」
「変わったこと……はないし、言うことも特には……?日に日に金吾が政次にべったりになってるくらいで」
「それはいつもだな……なら、お前自身に変わったことはないんだな?」

そっと頬に手を添えられ上を向く、まるで射るような眼光と人形のように整った顔でじっと見据えられたその途端、ひゅっと喉が鳴る。
至近距離での銀司は殺傷能力が高すぎるせいで、丙は何度も頷くのが精一杯だった。

「そうか……話は変わるが、お前はまだ祝賀会やらパーティは苦手、だよな……?」

銀司は腑に落ちないといった表情のまま少し唇を引き結ぶと、唐突にそう尋ねた。

「うん、苦手。命令として行けと言われれば行くけどね」
「番になるための関門の一つが、その祝賀会だとしたら、丙は行くか?」

その言葉に、一抹の不安が丙の中に生まれ、そっと銀司から視線を逸らす。
それどころではない、嫌な予感までもが胸を占め、ドクドクと心臓が鳴り始めたのだ。

「その祝賀会って、パートナー必須の古稀記念だったりする……?」
「そうだ、よく知ってるな。誰かにでも聞いたのか?」

ああやっぱりかと唇を強く噛めども、心臓の音は静まる気配を見せない。

「ちょっと、ね。それで、その祝賀会の話だけど、もし俺が行かないって言ったらどうするの……?」

思案でもしているのか、銀司はその問いかけに言葉を止めると、しばらくの後に真剣な面持ちで口を開いた。

「……引き抜き予定のうちの社員を連れてくしかないな、条件がパートナー連れって事だから、女性になるだろうが。今後を左右する大きな案件になるし、適当な人間は連れていけない。先方には本来来る予定だったパートナーが発情期になったとでも伝えておく。もし目に止められれば今後は世話になる相手でもあるだろうし、番の顔だけでも見せておかないとだしな」
「行く、何がなんでも」

言い終えると同時にそう食い気味に答えた彼は、もはや当日の事など頭にないも同然だ。銀司の話を聞いた今の丙は、光雅とばったり出会う確率よりも、真剣さに胸打たれ、彼の番として隣に立っていたいという気持ちの方が大きいらしい。
証拠に、鼓動は先程とは打って代わりトクトクと小さく、けれども早く脈打っている。

「わかった。当日は何がなんでも俺の隣を離れるな、もし何か言われそうならすぐ後ろに隠れてもいい、守らせろ」
「俺も銀くんを守りたいのになぁ……させてくれないんだもん、大きくなったね」

そう答えるのと同時にぎゅっと彼にしがみついた丙は、暖かい安心感を覚え、ぐりぐりとその赤毛を逞しい胸板に押し付けた。

「こーら、甘えんな。でも、そうと決まればタキシードとが必要だよな……持ってるか?」
「一応、政次と金吾の結婚式に合わせて作ったタキシードがあるよ、フルオーダーだから、そういう場でも浮かないとは思う、サイズも当時から変わってないし」
「なら大丈夫だな。後は当日、迎えに来る。それまでは会社に缶詰だから朝も連絡しないと思う」
「わかった、待ってるね」

ふと、そう思えばこそ寂しさがこみ上げる。普通の人間ならば想い人が誰かと寝た場所になど絶対行きたくないだろうし、見たくもないだろう。
なのに彼の場合、もちろん嫉妬こそすれ、唯一一日の中で銀司と会える時間であるせいか、はたまた銀司以外が見えないせいか、人とはズレた感情が生まれているらしい。

「発情期は……まだ先らしいな」

くんくんと匂いを嗅ぐ銀司に、擽ったさを覚えて身をよじる。自然と笑みが零れたのは、生理的反応だけではない。

「匂い、わかる?」
「いや、わからないからまだ先だと思ったんだ。わかる人間なら、毎日どんな匂いに感じるんだろうな」
「……どう、だろうね」

不自然さを感じさせぬよう笑って見せたが、どうやら墓穴を掘ってしまったらしい、銀司はまた納得出来ないというような顔をしていた。

「えっと、そうだ!俺そろそろ政次達の朝食作らないとだから、起きるね」
「……ああ」

様子がおかしい事くらい、銀司なら当然気付いているだろう。いつもならば答えるまで問うくせに、今日はそんな素振りの一つも見せはしない。
一抹の不安は抱えたままで、丙は今日という一日のスタートを切った。




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