「……ご、め」

乾いた口では上手く言葉を発することも出来はしない。
けれど光雅はそんな丙の姿を見て眉を顰めるどころか、やんわりと笑って見せた。

「気にする事じゃない……と思ってたが、そうか……俺が麻痺していたのか」

何故か彼はすっきりとしたような面持ちになるとゆっくりとベッドから体を起こした。

「そういえば、兄が哀れと口にする時は大体怒っていた……結局兄弟なんだな」

一人で納得でもしているように彼はうんうんと頷いて、ゆっくりと視線を丙に移す。

「水を掛けられた時、俺は苛立っていたんだと思う、けどその原因が俺なのもわかったし、人を傷付ける可能性があるのもわかった。教えてくれないか、お前はあの時何に怒ったんだ?」

改めて彼はそう尋ねた、夕時の問いは軽く流してしまったが、こんどこそ丙もしっかりと向き合って答えなければならないらしい。

「今から話すことを墓にまで持っていけるか?」

丙の声がワントーン下がる。光雅はそんな様子にも怯まず頷くと、丙は薬用に持ってきていた水で喉を潤し、長くなるとでも言うようにベッドの端に腰掛けた。

「……お前なら、殆どアルファしかいないこの場所で、オメガがどんな扱いを受けているかわかるだろ?」

俗に言う上流階級の人間、その九割をアルファが占めているこの世界。
オメガの人権が保証された?オメガもベータのように生活が出来るようになった?そんな言葉が出てくる時点で異常だと、オメガ以外の人間は気付くことをしないだろう。
詰まるところオメガは人権を守ってもらわなければ迫害され、普通の生活など出来ないのだと暗に言っているというのに。
けれど、守ってもらえるオメガはそれこそ警察や弁護士が介入できる一般社会だけという事をどれだけの人間が知っているだろうか。

「番候補、七人いるって言ってたよな?その中で、どこかの養子じゃない子はいるの?」

いや、と彼は首を横に振った。丙はそれにやっぱりとでも言いたげに乾いた笑いを漏らす。

「ほら皐月くん、上杉皐月でしょ?上杉って確か、最近妙に業績上げてる所のお偉いさんの苗字と一緒……つまり、そういう事だろ」
「何で、そんなこと知ってるんだ?」
「これでもオメガだってわかる前は金吾様の秘書になる予定だったから、忙しくて手が回らない時は書類とか名簿の整理してたんだよ……結局秘書の話は、オメガだって事だけで白紙、挙句の果てには親戚連中から養子にっていう話が持ち上がった」

その話を持ってきた時の顔はそれはもうニコニコとおべっかだらけの言葉でまくし立て、無理だとわかれば暴言を吐き捨て去っていく、それを何度も繰り返す者もいれば、一度で諦めた者もいるが、何ヶ月もの間一日に一度は誰かが家の門を叩いた。
けれど丙の両親は頑として首を立てに振らなかったし、金吾と銀司の両親もそれを許すことをしなかった。
アルファとアルファの間に生まれたオメガ、九条家代々の使用人家系に生まれたオメガ、幼い頃からみっちりと教養を学んだオメガ、外見は秀でているとは言えないまでも、これ程駒に持ってこいな存在など他にいないだろう。
オメガの養子たちはみな、オメガだとわかってから、一般家庭や養護施設など様々な場所から選ばれ貰われてくる、だからこそ平均以上の美貌を持っているし、不自由の無い暮らしの変わりに教養を一気に叩き込まれ、最後には売られるように嫁ぐことになるのだ。

「旦那様と奥方様、それからうちの父と母、四人が海外に行ったのは俺がオメガだったからだよ。本当は俺もついて行く予定だったけど、ギリギリになって俺だけ行くのを止めた、守るって言ってくれた人がいたからね」

結果的にそれがよかったのか悪かったのかはまだわからない。もし海外に行っていたら金吾と政次は出会わなかっただろうが、銀司も今のようにはならなかっただろう。
結局、過去は変えられないし、今の自分が全て解決する他ないのだ。

「色々……本当に色々あったけど、つい最近までは駒のような扱いはされずに済んだ……恵まれてたと思うよ、すごく」

あっと、小さく声が漏れる。そこでようやく光雅は気が付いたらしい、自分が彼に何を言ったのか、そしてそれがどれだけ丙の心を抉ったのかを。

「けどお前はそれが当然の世界にいたんだ、わかんなくて当然だし、この場所じゃ、俺みたいなのが異端なのもわかってる……それに一つ、お前のおかげでラッキーって思った事もあったし?正直お前……いや、光雅の話を聞いて幼稚だったって気付けた、ありがとな」
「ひのえ……丙は、どうしてそんなに感情が豊かなんだ?」
「そう見えるか?考えた事もなかったけどそうだな……」

丙だってずっと喜怒哀楽を持って過ごしてきたわけではない、養子の話が出ていた時期は、彼の世界は灰色に染まり、希望など見いだせないでいたのだから。

「……恋の一つでもすれば変わるんじゃない?」

そう笑い混じりに彼は答えた。
思い出したのは今でも強烈な光を放つあの姿、彼の灰色を吹き飛ばし、もう一度世界の色を取り戻した瞬間の光景。
思い出したらすぐにでも会いたくなってきたが、そんなに上手く事は動いてくれない。

「恋……?本でも一番よくわからないのにか?」
「候補達もいっぱいいるし……皐月くんだっている、しようと思えば出来るだろ?例えばそうだな、気付いたらその人の事ばっかり考えてたり、考えてたら楽しくなったり、何気ない瞬間に会いたいって思ったら、それはもう恋になってるよ」
「よくわからない」
「恋は理解するものじゃなく落ちるものだからね、落ちるまではよくわからなかったけど……愛は、まだ光雅には難しいか」

もう二人の間に柵などなくなったように丙は笑いながら話している。光雅はといえば、口を尖らせ、子供扱いされたようなのが気に食わなかったのか不貞腐れているらしい。
丙から見れば今の光雅は初めてあった時よりもずっとずっと感情豊かだ。

「でも、こうやってちゃんと人の感情まで知ろうとするんだ、光雅はきっと今からでもちゃんと心を取り戻せるよ」

ポンポンと軽く彼の頭を撫でる、どうにも丙には光雅と銀司が重なって見えて仕方なかった。

「子ども扱いしすぎだぞ」
「ごめんごめん、でも年齢知らないし」
「二十六だ、その年齢の男にやる行為じゃないだろ?」
「うっそ年一緒か……どうしても子供に見えてくるわ」

丙は彼の頭に手を乗せたままそう言うと、今度はいいこいいこと何度も何度も撫でるのを繰り返した。

「お、お前な……」
「満更じゃなかったりしない?」
「しない!」

そっかと言いつつ手を離せば光雅は一瞬だけ眉を下げたような表情を見せた。
と言っても、瞬きの間の出来事ように過ぎ去ったものだから、当の丙には気付かれなかったらしい。

「っと、つい話し込んだな……もう寝なよ、まだ朝は来ないから」
「……ここに、いるか?」
「いるよ……何、寂しいの?」
「一人があまり好きじゃないだけだ、からかうな」

また拗ねたように彼は言う。なんとなくその様子が面白くて、丙はつい口角が上がってしまった。

「ごめんごめん、光雅みたいなやつと話すのはあまり無いからつい。今度こそおやすみ」
「ああ」

そう短い返事が聞こえてから数分の後の事だ、彼の方から穏やかで規則的な寝息が聞こえてきたのは。










早朝五時、丙はベッドルームをそっと抜け出して、専用の着信音が鳴るのを待った。
待つことおよそ十分、今日も今日とて丙を呼ぶ音がする。

「おはよう銀くん、今日も元気そうでよかった」
『丙、着替え』
「持っていきたい所なんだけど、ごめん昨日風邪こじらせた知り合いの所に泊まったから、今日は行けない」
『は?知り合いってお前そんなやついな……』
「加藤さんにホテルの場所連絡してもらっていいかな?変わりに泊まってもらってるから、じゃあまた」
『おい丙!』

一方的にこちらの都合を伝え電話を切る。今まで一切した事のなかった言動に困惑の色をのぞかせた彼の声。
会いたい気持ちと痛む胸をぎゅっと押さえつけ、丙は心を鬼にした。

「心配してないといいけど……無理か」

また鳴り出した携帯をサイレントモードに設定し放置する。
"銀くん"で埋まっていく着信履歴は、もはや狂気の沙汰だ。

「お昼にでも会いに行こうかなぁ」

けれどそれを見れば見るほど不思議と丙の心は満たされた。
まだ大切に思われているということが、実感出来るような気がしたから。
とはいえいつまでもそうやって増えていく着信を見つめ続けるわけにもいかない、今日も今日とて彼はお粥を作る準備を始めた。
昨日よりは少し固めに、けれどしっかり食べれる具合を見極めて。
ついでに自分用の朝食も作ってしまおうかとも思ったが、その前に昨日のうちに本とは別に積んだ洗濯物が目に入った。
迷惑かもしれないとは思いつつも、その生活能力の無さにさえ子供っぽさを感じて世話を焼きたくなってしまうあたり、こればかりは性格かと諦めた。
丙は鍋の火加減を一度確認すると、リビングに戻り律儀にタグを一つ一つ見ながら洗濯を始めたのだ。






その日光雅は聞き慣れない音と匂いで目を覚ました。
忙しなく動く人の足音と、花の蜜のようないい匂いに混じった、清潔感がある匂い、これは一体なんだと重い瞼を開けば、そこには朝日に照らされた丙がいた。

「ん……」

茶混じりの赤毛は鮮やかさを増し、アーモンド型の目には光をいっぱい溜め込んで、キラキラと輝いて見える。
いつもはこの部屋に誰かがいても何も感じはしない、それどころか気だるさも感じてしまうのに、今の光雅は胸の奥から暖かいものが溢れ出るような感覚を抱いた。

「あ、起きたか、おはよう。悪い、気になったから勝手に洗濯してた。迷惑だったならクリーニング代出すから改めてそっちに頼んで」
「……いや、迷惑じゃない……でも、寒い」

ベランダへの窓を少し開けているせいか、夜明けのまだ冷たい風が室内に入ってきて、空調を聞かせているこの部屋でも、肌が冷たい。

「もうすぐ済むからちょっと待ってて、あと、今の内に体温計っててもらえる?」

光雅は何も言うことはせずコクリと頷くと、丙に言われた通り、布団に潜ったままではあるが体温を計り始めた。

「……三十七度五分」
「昨日よりは下がったか、まだ熱あるけど動けなくはないかな」

言いながら彼はカラカラと戸を閉めて、立てるかと言いながら光雅へと手を差し伸べる。

「一人で歩けそうか?歩けるなら顔洗って着替えなよ、その間に朝ご飯準備しておくから」

促されるまま立ち上がると、昨日とは比べ物にならない程の体の軽さに目を見張る。

「これなら歩ける……むしろ病院行かなくてもいいくらいだ」
「行け。でも、普通の風邪だったみたいで安心した……お粥少し固めにしてて正解だったな。卵焼きも食べられそうか?」

ああ、と光雅は素直に答えると、ゆっくりとではあるが洗面台へと歩いていった。

「さて……」

丙はといえば、いそいそとキッチンに戻りお粥の鍋を温めると、いつもの要領で早速卵焼きを作り始めた。

「はい、お待たせ」

身支度を済ませた光雅は、この間のスーツ姿とは打って変わって、タートルネックのニットにチノパンと、シンプル且つラフな姿でダイニングチェアに座っていた。
その姿たるや、まるで病人には見えない。

「ああ……」
「なぁ光雅、こういう時はありがとうって言われた方が俺は嬉しいんだけど」
「……ありがとう?」

何でそんなことをと言わんばかりに首を傾げた彼に、丙は頭を抱えた。
光雅は感情という部分に関して、あまりにも未熟だ。

「まぁ、それもそうか……光雅、誰かに何かをしてもらったらありがとうって言う、それは覚えておいた方がいい」
「……わかった、ありがとう」

まだ納得は出来ていないようだったが、しっかりと聞こえた言葉に丙はニッと笑って見せた。

「どういたしまして!よく出来ました」

昨日と同様なでなでと頭に触れる。けれど光雅は、嫌がる素振りどころか、ジッと丙を凝視して、彼の顔から視線を外そうとしない。

「な、なんだよ……?」
「どういたしましてか、そうか……悪い気分じゃない」

そして小さくそう言うと、今度はふわりと微笑んだ。
刹那、丙の心臓は、ドクリと一度大きくなった。

「お、わ……」

つい、変な声が口から漏れる。恐る恐る頭を撫でていた手を下ろすと、彼は一歩後ろへ下がる。

「どうした?」

片眉を歪ませそう問うた彼はどうやら心配してくれているらしい。けれど、銀司以外にこんな反応をする自分がいることに、驚き過ぎてそんな事まで頭が回らない。
丙の直感は正しかったのだ、本能的にこの人間と一緒にいてはまずいという直感は。

「あ、いや、何でもない……そうだ、風呂借りていい?昨日から入れてないから」
「構わない」
「ありがと、じゃあ食べ終わったらシンクに食器置いてて。体がだるい時は無理せず横になれよ」
「わかった」

それだけ言うと丙は早々に風呂場へと向かった。本当は屋敷に帰ったから済ませるつもりだった、けれど丙はすぐにでも、こんな気分も全て、綺麗さっぱり水に流してしまいたかったのだ。

「……ん」

残された光雅はといえば、丙の作った甘めの卵焼きを口に運ぶと、無自覚のまま、やんわりと顔を綻ばせた。







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