幻想レインボー



薔薇には20万もの品種があるらしい。だが、その元となる原種は150種程しかない。交配を重ね続けることで、今の夥しい数の品種となったわけだ。交配のしやすさももちろんあるだろうけど、それだけじゃないと、俺は思う。きっと多くの人が自分だけの薔薇が欲しいと望んだろうと。この世でただ一つの薔薇、それを人は求めたのだろうと。その薔薇をきっとこの世で一番大切な人に捧げたかったのだろうと。20万もの愛の物語がこの薔薇の歴史の裏に密やかに麗しく重ねられている。なんだかロマンチックだなって、そんなことに思い至ったところで俺は自分で恥ずかしくなって思考の連鎖を断ち切った。

俺の通う高校には立派な薔薇園がある。薔薇園だけでなく、陸上トラック、ナイター可能な野球場やサッカー場、講堂に音楽ホール…設備は全て一流だ。兄さんが通っていた高校に行きたいとここにしたのだが、自分には少し贅沢な気もする。

今度のHE★VENSのミニアルバム用に各自に曲が与えられたが、その作詞を各々ですることになっていた。作詞は苦手だ。自分の気持ちなんて自分でもわからないのにそれを言葉にして誰かに伝えるなんて、そんな芸当が自分にできるとは思えない。それでも仕事だ。やるからには自分が納得できるものを作りたい。俺は何かの足しにならないかとその薔薇園に足を踏み入れた。

外からでも微かに香ったが、中に入ってみればそれは甘く、それでいて瑞々しく爽やかで、胸いっぱいに吸い込まずとも体の隅々までそれは侵入し、頭を軽く麻痺させる。麻痺とは言い過ぎかもしれないが、それは甘やかに思考を奪い、気持ちのさざ波を凪いでしまう、そんな力があった。

幾多の薔薇の色彩が目を楽しませる。その視覚の愉楽に身を委ねていると奥からうちの制服が視界に飛び込んできた。生徒が1人、薔薇に水やりをしているらしい。

「あ、勝手にすみません」

他人のテリトリーに無断で入ってしまったことを知った俺はすぐさまそう謝罪し、その場を去ろうとした。

「いいえ、ぜひ見ていってください。 薔薇も喜びます」

そう言ったのは、よく見れば同じクラスの女子だった。名前は確か…

「あれ?鳳くんじゃないですか。私、同じクラスの名無子です」

先に名乗ってくれて助かった。すぐには彼女の名前が出てこなくて、あやうく彼女の名前を呼ぶのを回避しながらしどろもどろで会話をしなければいけないところだった。

「名無子さん、園芸部だったんだ。この薔薇、綺麗だね」

仕事で学校を休みがちな俺はこの5月になってもクラスメイトの名前をろくに覚えられないでいた。彼女も然りだ。ただ、彼女の顔はなんとなく覚えていた。特別なことはないが、おそらく彼女が人目につきやすい容姿だからだろう。色が白く、髪や目の色素が薄い上に、手足も華奢なため病弱そうに見えるが、艶やかなバラ色の頬と唇がその印象を打ち消している。彼女は単純に美人なのだ。芸能界に身を置く俺ですらそう思う。

「ありがとう。ここを褒めてもらえるとすごく嬉しい」

初めて会話と呼べる会話を交わしたが、思っっていたより気さくな性格らしい。笑顔でそう言う彼女を見て俺はそんなことを思った。

「鳳くん、花好きなの?」

人見知りの俺は慣れない人との会話が苦手だったが、彼女は気まずい沈黙を作る間も無く質問を投げかけてきた。

「えぇと、特別好きと言うわけではないんだけど、すごく綺麗で、いい匂いがしたから、つい入ってみたくなったんだ」

そう答えて俺はなんだか照れ臭くて首の後ろをさすった。

「わかるよ。今の時期の薔薇園は本当に綺麗だから。目を奪われるってこう言うことなんだなって、思う」

そう言う彼女は俺に向けていた視線を目の前の薔薇に移し、実に愛おしげで慈愛に満ちた目で薔薇を愛でていた。

その横顔が、綺麗だった。どの薔薇よりも美しいなんて月並みだけど、ここの百花に劣らない芳しさを、彼女は持っていた。

「その通りだね。俺もその美しさに目を奪われたんだ。今日、偶然だけどここに来て、よかったなって思う」

素直な気持ちを音にして口にして言葉にして、初めて気づいた。気持ちを言葉にするのってそんなに難しいとこではないのだと。

「そう言ってくれて嬉しいな。よかったらまた来てよ。鳳くん忙しいだろうけど、再来週くらいまでは薔薇も綺麗に咲いてるから」

そう言って止めていたホースの水を再び撒き始めた彼女。午後の陽光がその飛沫に虹をかけた。さっきまでの薔薇の美しい色彩がその虹に吸い込まれていって彼女の周りだけが鮮やかに色づいている。幻想とも空想ともとれないその情景が俺の脳裏に焼き付いた。俺が植物学に明るければ、今の彼女のために薔薇を作りたいだなんて、思うのだろうか。
でも俺にそんな術はないから、とりあえず今はこの気持ちを詩にしてみようと思う。音楽は自分と誰かを繋いでくれる大切なものだ。これから生まれる音楽が俺と彼女を繋いでくれるといいな。なんて。そうして俺は薔薇園を去った。リミットは再来週か。忙しくなるな。なんて。薔薇の残り香を惜しむように吸い込みながら俺は伸びをした。

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