「マジでこんな宿に泊まってんのか?」 ゼロスが言うのももっともだった。およそ若い女性がひとりで泊まるとは考えられないような安宿だったからだ。 「節約だよ、節約」 「コリンがしいなを守るから大丈夫」 ゼロスは何とも言えないような顔であたしを見つめた。 「…予約とかは?」 「この宿でそんなのあると思うのかい?」 額を押さえる。溜息。 「…駄目だ、ありえねー」 ゼロスはいきなりあたしの手を掴む。空いている手であたしの荷物を持った。 「なっ、なんだい急に!」 「ウチに来い。泊めてやる」 「は!?」 さっきの話をしたばかりの今でそんなことを言われたから、あたしは必死で抵抗した。 「あのな、客間くらいあるから余計な心配すんな」 「…信用できない」 手を掴まれたまま見つめ合う。あたしは怒りと困惑、ゼロスは苛立ち。コリンはいつ噛み付いてやろうかと臨戦体勢だ。 舌打ちが聞こえた。 「俺はその気のない女は抱かねー。それだけは嘘じゃねーよ」 好みか好みでないかはさて置き、こんな綺麗な顔の男に、憎しみでなく好意から生まれた怒りの目で見つめられると、さすがに意識してしまう。 膠着状態はゼロスが破った。長い長い溜息で。 「…ひとつ」 「え…」 「ひとつ。俺さまの家なら宿代も浮くし、飯、シャワー、ベッドなんでも揃ってる」 「……」 ゼロスはあたしを見つめたままだ。あたしは次の言葉を待つ。 「ふたつ。いくらおまえでも危険過ぎんだろ」 「あたしは…」 「危険ってのは、命取られたり身ぐるみ剥がされたりってだけじゃねーのは、わかってんな?」 解っている。かっと頬が熱くなると同時に、嫌悪感を覚えた。そんなあたしの頭を、ゼロスは撫でた。 「女の子なんだからよ。ちょっとは気を付けよーぜ?」 女の子。 今まであたしは男とか女とか関係のない世界に生きてきた。女だと甘えるような生き方は許されなかった。女を捨てなければならなかった。そうでなければ、ただの憎しみの対象。あたしが女として見られるときは、…いつだって気持ちの悪い視線だった。 それが、こんなふうに、ごくごく自然に、女の子として接してもらったことは、初めてだった。 「…来いよ。な?」 「あ、ちょ、ちょっと!」 ゼロスはあたしの手を握り直し、やや強引に引っ張った。 あんぐりと口を開けて、あたしとコリンは立ち尽くした。 「こ…、これがあんたんち?」 「おっきい…」 ゼロスは呆れていた。 「あのな…。神子ってこの国でどんだけ偉いか知ってるか?」 「…王族の次、だよねえ」 あはははは、とあたしは渇いた笑いをする。メルトキオ貴族街一の屋敷を目の前にして。 「…まあいい。ワイルダー邸にようこそ、マイハニー」 優雅な動作で一礼し、手を差し延べてエスコートする。こういうところはさすが貴族、あたしとは雲泥の差だ。 重い音を立てて扉が開くと、その場にいたお手伝いさんたちは皆こちらを見た。 「お帰りなさいませ、神子さま」 「おう」 頭を下げる彼らを横目に、あたしはまだゼロスに手を引かれていた。 「お帰りなさいませ、ゼロス様」 老執事がうやうやしく頭を下げる。 「客間をひとつ準備してくれ。今日ひとり…と一匹泊める」 「かしこまりました」 執事さんはあたしのほうを向き、ゼロスにしたとおりの動きで礼をした。 「セバスチャンと申します。お見知り置きを」 「あ、あたしはしいなです、藤林しいな。こっちはコリン。よろしく」 セバスチャンは細い目をさらに細くする。値踏みされているのではなく、微笑んだようだ。 「よろしくお願いいたします、しいな様、コリン様。なんでもご申し付け下さいませ」 再び頭を下げる。あたしの手を握る主人の手を見た。 「俺さまのハニーだからな、VIP待遇で頼む」 「だ、誰がハニーなのさ! あの、そんなに気を使わなくて大丈夫だからっ!」 「あ、俺さまの部屋に茶だけ頼むわ」 「かしこまりました」 あたしの言葉は無視されているようだ。長い階段を手を引かれながら登る。セバスチャンはしばしこちらを見ていたが、やがて姿を消した。 「ここが俺さまの部屋」 ドアの向こうにあったのは、意外にも質素な部屋だった。全ての出窓には花とレースのカーテン。壁の一面を占める本棚に、彫刻のされたシンプルなデスク。休憩するときのためなのか、カフェテーブルもある。椅子はひとつ。ベッドはひとりでは広過ぎるキングサイズで、おとぎ話で見るような天蓋から垂れ下がるビロードのカーテンが美しく揺れていた。 「適当に座ってくれや。今茶が来るから」 荷物をカフェテーブルの傍に置き、自らはデスクチェアの背もたれを前にして座る。あたしは部屋の中をうろうろしていた。 「フジバヤシ、って言うんだな、ファミリーネーム。珍しいよな?」 窓際の花を見ていると、ゼロスは背もたれに顎を乗せてこちらを見ていた。 |