外れない足枷


試合が終わってから、皆ダウンをとったり、片付けをしたりと夫々動いていた。私も潔子とマネの仕事を終わらせ、キャットウォークに田中のジャージを取りに戻る。
流石スポーツ用の素材だ。もうほとんど乾いている。

「ねえ」

ジャージを腕に掛け、足を滑らせないように気を付けながら梯子を降りていればそう声を掛けられた。床をしっかりと踏みしめてから振り返れば、柔和な笑みを浮かべる及川の姿。

「君、烏野のマネージャーだよね?良かったら連絡先、教えてよ」

よく名前も知らない人間と連絡先を交換しようと思うな、と半ば呆れながら息を吐く。丁重にお断りしようと口を開きかけた途端、頭にある考えが浮かぶ。

「……いいけど。
その代わり、私のお願いも訊いてくれる?」

気付けばそう口に出していた。きっと、彼らに感化されてしまったのだ。駄目だと頭では理解していても、唇から零れる言葉は止まりそうもなかった。

「もちろん!何でも言って!」

及川は更に笑みを深めながら、私が続ける台詞を待っている。もう一度短く息を吐いて、その瞳を見上げた。

「サーブ、受けさせて」

「なんだそんなことかー、いい……よ?」

私が紡いだ言葉は、彼の予想に反していたらしい。なんとも言えない間抜けな顔をして、及川は固まっている。まるで信じられないとでも言いたげだ。無理もない、私が彼らの試合をベンチで見ていたのを彼は知っているのだから。

「え、っと……本気?」

私が及川でも同じ反応をしただろうと思う。選手ではなくマネージャー、しかも女子からそんな申し出をされれば誰だって困惑する。

「本気だけど、無理にとは言わないよ」

「うーん、今なら溝口クンも居ないし、少しならいいよ」

どうやら及川は、コーチのことをクン付けで呼んでいるらしい。そういえば、先程彼が青城の入畑監督や武田先生と共に体育館を出ていくのを見かけた。

及川が彼のチームメイトに何か伝えに言っている間に、手に持っていたジャージを田中に返す。申し訳なさそうに感謝を述べる彼に出来るだけ優しく微笑みながら、視線をコートに投げた。

あんなこと言わなければ良かった、と後悔が腹の奥底をぐるぐると回っている。もうコートには立たないと、選手には戻らないと、そう決めていたはずなのに。

けれど、欲望にも似たこの感情を、押し殺す手段を私はもう持っていなかった。

「マネちゃーん!」

己を呼ぶ及川の声に我に返る。どうやら、準備が終わったらしい。ボールの入ったカゴと共に、彼が向かいのコートに入っている。その場で軽く一度飛んでから、白線の内側へと足を踏み入れた。

──ああ、もう、理屈じゃない。

レシーブをする為だけにコートに入るのは、かなり久し振りだ。初めて烏野のバレーボール部に見学に行った時とは違う緊張感。後悔とか理性とか、そういった雑念はもうどこかへ飛んでいってしまったらしい。

心臓が痛いくらいに脈打っている。体の奥底からせり上がってくるのは、高揚感だ。
思わず頬が緩むのが分かった。青城の選手たちも、烏野の面々も、皆がこちらを注目している。それでも、もう外野に気を配る余裕なんてなかった。早く、ボールに触れたい。頭の中にはそれしかなかった。

「いくよ!」

及川の声と共に笛の音が響く。彼の手からボールが高く放られ、床を蹴る。パァンと小気味好い音が鳴り、放たれたボールはとても綺麗な軌道を描いていた。

「えっ」

困惑の声を上げたのは、恐らく及川だけではない。私を見ていたほとんどの人が同じ感情を抱いたはずだ。ボールは弾かれることなく、私の手の中に収まっている。

「あの子、バレーのルールも知らないの?」

この声は、及川目当てで残っていたであろうギャラリーの女子のものだ。バレーはボールを持ってはいけない競技。そんなこと、私が一番よく知っている。

「手、抜いてんじゃねえよ」

図々しい女だと思われただろうか。サーブを受けさせてくれとお願いして、いざ打ってやれば、口から出るのは怒りを孕んだ一言。ネット越しに、及川がぐっと息を飲んだのが分かった。

「〜〜〜っ、どうなっても知らないからね!」

暫し唸った後、彼は開き直ったように叫んだ。同時に、身体に突き刺さるような緊張感が走る。

先程とは違い、及川のサーブは鈍い音を立てて放たれた。遠慮のない、威力重視のサーブだ。
ボールの真正面に回り込んで構える。途端に芯に響くような痛みが腕に走った。ボールは綺麗に返ることはなく、ギャラリーまで弾き飛んでいく。

「もう1本!」

「嘘でしょ!?」

私の言葉に、及川が叫ぶ。ごめん、もう止まらないの。湧き上がる感情に、思わず口元が歪む。あの日死んだはずの何かが、確かに私の胸に存在した。

それから半ばヤケクソになった及川のサーブに、私のレシーブは弾かれてばかりで、約1年のブランクは思ったよりも酷いらしい。それでも、あの時死にものぐるいで染み込ませたものを、身体はきちんと覚えていた。

「これで最後だからね!」

そう吐き捨てて及川がボールを叩く。私が受けた中で、今日一番の渾身のサーブだったと思う。それでいて、私の身体がやっとあの頃のように動いた。

頭の中は清々しいほど空っぽで、ただボールだけに集中している。この感じだ。初めてリベロとして監督に認めてもらった時と同じ。

構えた両腕にボールが触れる。そしてそれはふわりと宙を舞った。上がったボールは白線の内側、本来ならばセッターの待つ位置に落ちる。自分でも胸を張れるくらいの完璧なレシーブだった。

「う、嘘でしょ……」

静まり返った体育館の沈黙を破ったのは及川である。他に口を開く者は誰もいない。全員が、目を見開いて固まっていた。

「すっ、すっげえええええええ!!名字先輩!!レシーブも出来るんですか!?」

日向、ただ一人を除いて。駆け寄ってきた明るい髪が、眼前で揺れる。そうしてやっと、止まってしまっていた体育館の空気が動き始めた。

「名字……?もしかして"あの"名字名前、さん?」

いつの間にかこちらに来ていたらしい及川に、肩を掴まれる。"あの"名字名前っていうのが私を指すのか定かではないが、高校バレー界ではそこそこ名が知れているのは自覚しているつもりなので、取り敢えず頷く。

及川のその言葉を皮切りに、周りにわらわらと選手たちが集まってくる。口々に投げられる質問に答える前に、左足から力が抜けるのを感じた。

「ちょっ、ごめん、大地肩貸して!」

言うのが早いか、倒れ込む前に丁度隣に居た大地に手を伸ばす。胸を満たしていた高揚感はもうどこかに消え失せてしまって、まるで自分のものではないみたいに感覚のない左足を睨んだ。

どれだけバレーが好きでも、身体に染み込んだ技術があっても、決して試合で使い物にはならないということを、突き付けられた気がした。



back

×