変わらない温度
あれから少し休ませてもらったものの、左足の感覚が戻ることはなく、結局大地に肩を借りたまま、青葉城西を後にすることになった。
「名字」
大地の声に顔を上げれば、揺れた瞳と目が合う。重たかっただろうか、という私の予想はどうも見当違いだったらしい。
「お前のレシーブ見て、本当に凄いなって思ったよ」
言葉を一つ一つ選ぶように、彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。ほかの部員たちは夫々話し込んでいて、世界から二人だけ切り離されたような心地がした。
「こんな状態のお前に言っていい事じゃないかもしれないけど、やっぱり、指導者としてチームに入ってくれないかな」
それは懇願にも似た、静かな問い。今日の烏野の試合を見て、応えたい気持ちはもちろんあった。けれど、痛みすら感じないこの足で、一体彼らに対して何が出来るんだろう。
「私は、今でもバレーが好き。大地たちの試合を見てた時もそう、及川のサーブを受けた時もそう。私の居場所は、コートの内側のはずなのにって思った」
「うん」
「でも、この足じゃ、1セットだって戦い抜くことは出来ない。皆が戦ってるのを見て、無理だって頭ではちゃんと分かってるのに、我慢出来なかった」
「……うん」
「見てるのも、わくわくするし、皆すごいなって思うんだけど、でも、楽しいとは思えないの。皆と選手として関われたらどれだけいいだろうって。そればっかりで」
大地は私が零す言葉を、時々相槌を打ちながら、黙って聞いてくれる。旭さんにも伝えたことのない気持ちを、吐き出してしまいそうだった。
「レシーブ教えてくれって言われるの、正直すごく嬉しい。私で力になれるなら、何だってしたいと思う。
だけど、それは選手だったらの話。白線の内側で、共に戦える仲間だったら……」
だから、ごめん。最後に続けた一言は、彼の耳に届いたかも分からないくらい、微かなものだった。もう声になったのか、ならなかったのか、自分でも分からない。
こんなに弱い人間だっただろうか。いつからこんなに脆い人間になってしまったのか。情けないなと自嘲が漏れる。
「……名字に会ってから、傷つけてばっかだな」
空を仰ぐ大地の表情は、下から見上げる体勢の私からは窺い知ることは出来ない。それでも、暫くして絡み合った視線の先の瞳は、優しい色をしていた。
「例え選手じゃなくとも、どういう立ち位置でも、名字が俺たちの仲間なのは変わりないからな」
もしかしたら、選手でもなく、マネージャーとしての経験も浅いからと彼らと一線を引いていたのは私の方かもしれない。大地の言葉に、少し胸が軽くなったような気がした。
「……武田先生はああ言ってくれたけど、いくら日向と影山のコンビが優秀でも、正直、周りを固めるのが俺たちじゃあ、まだ弱い」
私を支える腕に力が籠る。そう言って彼は悔しいけどな、と続けた。多分、大地が言っているのはレシーブについてだけではない。土台として、まだ脆いという意味合いを孕んでいる。
「おお〜さすが主将(キャプテン)!ちゃんと分かってるね〜〜」
そんな彼の言葉を拾ったのは、烏野の面々ではなく、及川だった。彼の登場に過敏に反応したのは田中で、もう及川に対してメンチを切っている。
及川は呆れたように笑みながら、それをいなしていた。それから、日向の試合での戦い方を褒めていた彼の目付きが変わる。
「次は最初から全開で戦(や)ろうね。
あ、そうそう、サーブも磨いておくからね」
鋭い視線に射抜かれたのは、多分気の所為じゃない。私たちが体育館を後にする前、彼がチームメイトに煽られているのを耳にした。女子に返されてどうするんだ、と。
「君らの攻撃は確かに凄かったけど、全ての始まりのレシーブがぐずくずじゃあ、すぐ限界が来るんじゃない?」
及川の言う通りだ。強烈なサーブを打ってくるのは、何も彼だけではない。男子バレーに疎い私でも知っている奴が一人いる。それも、県内に。
「インハイ予選はもうすぐだ。ちゃんと生き残ってよ?
俺はこの──クソ可愛い後輩を、公式戦で、同じセッターとして、正々堂々叩き潰したいんだからサ」
影山に人差し指を突き付けて及川は言う。影山が息を飲んだのが、こちらからでも分かった。
「レッ、レシーブなら特訓するっ」
及川の圧倒的な威圧感の中、及川に徹底的に狙われていた月島くんの袖を引き、彼に吠えたのは日向である。及川は更に目元を冷たくして、続けた。
「レシーブは一朝一夕で上達するモンじゃないよ。主将君と……名前ちゃんはわかってると思うけどね」
まさか自分の名が挙げられるとは思わず肩が跳ねる。さっきまでマネちゃん呼びだっただろ、馴れ馴れしいな、と心の中で毒づいた。
「大会までもう時間は無い。どうするのか楽しみにしてるね」
それだけ吐き捨てると、及川は踵を返して体育館の方へと歩を進める。重くなった空気に、影山が必死にフォローをすれば大地から、ふふっという短い笑みが降ってきた。あ、これ怖い時のやつだ、と思ったのは恐らく私だけではない。
「……確かにインハイ予選まで時間は無い、けど……そろそろ戻ってくる頃なんだ」
──烏野の"守護神"
「なんだ、他にも部員居るんですか!」
「……うん、居るよ」
影山の声に答えたスガの表情が暗くなった理由を、私はよく知っている。何度も、何度も電話越しに彼の名を聞いた。烏野の守護神、スパイカーの背中を護る、小さなリベロ。
一年生が頭の上に浮かべた疑問符は、帰りを促す武田先生の声に掻き消された。大地もスガも、私が知っていることを分かっているのだろう。大地は空気を晴らすように私の髪をわしゃわしゃと乱した後、私を半ば抱き抱えるようにしてバスに乗り込む。その心遣いが、有難くも情けなかった。支える側で無ければならないのは、私の方なのに。
*
「──よし!じゃあ軽く掃除して終了!お疲れした!」
学校に戻り軽いミーティングをした後、大地の声が体育館に響く。私はといえば、潔子の仕事の手伝いは疎か、掃除ができる訳もなく、隅の方でノートを見返していた。これじゃあ本末転倒もいいとこだ。
「僕、びっくりしたよ。強い強いって聞いてた青葉城西高校に勝っちゃうんだから。
向こうの選手達も監督さんも皆を見てびっくりしてて、僕勝手に鼻が高かったよ」
大地と共にノートを見ながら、今日の試合について色々と意見交換をしていれば、近くに来ていた武田先生がそう口を開く。大地は立ち上がって、先生に向き直る。
「でも、まだ足りないんです。今、日向と影山が機能しているお陰で何とか攻撃は決まってますが、日向がブロックに捕まり出したり、今日みたいにレシーブ崩されたりしたら為す術が無くなります」
それから、私を軽く一瞥すると、少しだけトーンを落として言葉を紡ぐ。気を遣わせてるなあと思いながらも、移動することもままならないので、そのまま耳を傾け続けることにした。
「そういう状況になった時、俺が監督とかコーチみたいな立場で指揮取れるかどうか……」
「……指導者の方は僕に任せてくれ、アテはあるんだ。何度かお願いしてて、まだ了解は貰えてないけど……、きっと、何とかしてみせる」
そう言い切る武田先生の瞳は、試合終わりに見た時と同じ強い意志みたいなものを強く孕んでいる。戸締りを大地に任せて、先生はいそいそと体育館を出て行く。
なんか武ちゃんが頼もしい……!という田中の呟きに精一杯頷きを返す。青城との試合を取り付けたのも先生だと聞いたし、生徒の為に本当に一生懸命な人なんだなあと思った。
「この真っ二つのモップ、危ないから捨てちゃっていいですかーあ?」
「いいんだ!それは!」
ぼうっと武田先生の出ていった方を眺めていれば、体育用具室から山口くんの問いが響く。身体を伸ばして中を覗くと、慌ててモップを受け取るスガの姿があった。
「……いいんだ。
直せばまた、使えるだろ……」
疑問符を浮かべる山口と、モップを握り締めたまま俯くスガを何となく見て居られなくて、大地を見上げる。視線がかち合うと、大地はゆっくりと私の隣に腰を降ろした。
「旭から、色々聞いてるんだろ?」
「うん」
「ちょっと熱いヤツで、凄い良いヤツなんだよ。
……リベロとして常に上を見てるような。だから、仲良くしてやってくれよ」
な?と微笑む大地に、辛うじて頷く。別に、私と何かあった訳じゃない。けれど何となく、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。きっとそんな私の心境を、大地は察しているんだろう。
「ホントに送ってかなくていいのか?」
掃除も終わり、体育館の戸締りも確認して大地と共に外に出れば、彼がそう問うてくる。家まで送ると言う彼の申し出を、先程丁重にお断りした。
「校門までで大丈夫。迷惑かけてごめんね」
それでも渋る大地をスガに預けて、姿が見えなくなるまで手を振って見送る。それから短く息を吐いて、携帯を開き、通話履歴の割と上の方に位置していた人物をタッチすれば、軽快な音楽が流れ始めた。
多分仕事中だろうから、すぐには出ないだろうと思っていたが、予想よりも早く呼び出し音は終わりを告げる。
『どうした?』
第一声が"もしもし"じゃないあたり、この人もまた私のことをよく知っているなと、口角が上がった。まあ、二言目は説教だと思うけど。
「仕事落ち着いてからでいいから、迎えに来て。足が死んでる」
『あー、わかった。なるべく早く行くけど、今母ちゃん居ねえから時間かかるかも。暖かくしとけよ』
矢継ぎ早にそれだけ言うと、通話の終了を告げる無機質な機械音が鼓膜を揺らす。石壁に背を預けながら、迎えが来るのを待った。