グロリアス・デイズ(中編)1




電車を降車すると、空はどんより曇っていた。今にも雨が降り出しそうな天気。
――雨が降り始める前に家へ帰ろう。
今日は傘を持ってきていない。今朝の天気予報で、降水確率が低い数字を示していたからだ。


「紫苑、家まで送るよ」
隣に立つ人物が、柔らかく声をかけた。
「いえ、大丈夫です。山勢さん、駅まで自転車で来てますよね? 雨が降り出す前に帰らないと」
「はは、そうだな。天気予報で雨は大丈夫かと思ったんだけど……外れたな」
山勢とは、紫苑のサークルの先輩だった。紫苑は大学三年、山勢は一つ上の大学四年生だ。

山勢は優しい男だ。温和で、いつも微笑みを絶やさない素朴な人物だった。
男性に苦手意識を持つ紫苑も、山勢は信用できる人物だと認識していた。紫苑をよく気にかけてくれる、面倒見のいい先輩。
かと言って、必要以上に紫苑に近づいては来ない。紫苑を怯えさせてしまわぬように、常に一定の距離を持って接してくれていた。

彼は紫苑が男性恐怖症だということを知っているのだと思う。
紫苑がそう打ち明けた訳ではない。もしかしたら、人づてで聞いたのかもしれないし、紫苑と接するうちに気づいたのかもしれない。


山勢と仲良くなるきっかけはサークルもそうだが、最寄り駅が一緒だということだった。
時間があえば、必ずと言っていいほど二人は一緒に帰っていた。夜遅くなれば、山勢が自宅まで送ってくれる。
今日もそうだった。
でも今日は講義も早く終わったし、それほど遅い時間の帰宅ではない。それに雨が降り出しそうだ。
紫苑は自宅まで徒歩だが、山勢は自転車。雨に降られたら、自宅が遠い山勢の方がびしょ濡れになる。



「紫苑……あっごめん!」
山勢はとっさに紫苑の手を掴んで、呼び止めた。しかし、すぐにはっとして手を離した。
「いえ、大丈夫ですよ」
柔らかく微笑むと、山勢はほんの少し頬を上気させた。
実を言うと、手を握られた時は少々怯えた。でも相手が山勢だったので、すぐに自分を落ち着かせることができた。



『紫苑と山勢先輩って付き合ってるの?』
同じサークルの子に問われたことを思い出す。
紫苑は否定した。
『そうなんだ。あんたたち仲良いから、てっきり付き合ってるのかと思ってた』
『最寄り駅が一緒なだけだよ』
『そう思ってるのは紫苑だけだって。山勢先輩は絶対あんたに気あるじゃん』
見てて分かるよ、と言いながら、その子は鏡でつけまつげの接着部分を気にしていた。
『山勢先輩に告白されたら付き合うの?』
彼女は化粧ポーチの中をいじりながら、紫苑に聞いた。
『……分からない』
そう答える脳内では、四年前別れたっきりの小さな男の子を思い返していた。




「紫苑?」
「あ、はい」
つい、物思いにふけってしまった。
「紫苑……あの、急かすわけじゃないんだけれど……返事、考えてくれた?」
山勢はたどたどしく言葉を紡ぎながら、頭を掻いた。照れた様子の山勢に、紫苑もつられて頬を染めた。
「あ……あの」

数日前、紫苑は山勢に告白された。
大学を卒業して、離れ離れになってしまう前に付き合って欲しい、と。
正直、紫苑は自分の気持ちが分からなかった。
山勢のことは好きだ。
しかし、それは彼の人間性が好ましいということに過ぎなかった。本当に男性として山勢を受け入れることができるのか、と自分に問うた時……その答えは否、だった。



『四年後、あんたがちゃんとおれを男として認めてくれたら』
そう言って、別れたあの子は今、元気にしているだろうか。自分より背が高くなってしまっただろうか。
あの時はまだボーイソプラノだった。声も、体型も、性格も……想いも、変わってしまっただろうか。
――ネズミ。
あれから四年の月日が経った。ネズミとはまだ再会出来ず仕舞いだ。
もしかしたら、再会の約束すら彼は忘れてしまったのかもしれない。

人の想いなど……不変とは程遠い。簡単に変わってしまうのが、常だ。四年前の再会の約束は、紫苑の心を縛り付けて離さないと言うのに。



「……紫苑?」
「山勢さん……ごめんなさい。ぼく……」
そこまで言って、山勢は察したのだろう。
「いや、いいんだ! ごめん、紫苑の気持ちも考えないでおればっかり舞い上がっちゃって」
「え……山勢さんは悪くありません」
「おれ……紫苑の特別なんじゃないか、って思ってたんだ。男とあんまり話をしない紫苑が、おれとは話をしてくれるから……笑ってくれるから。自惚れてたよ」
はは、と山勢は力のない笑みを漏らした。
「ごめんなさい……ぼくそんなつもりじゃ……」
悪いのは自分だったのだろうか。思わせぶりな態度をした、自分が。
自分の曖昧な態度が、優しい山勢を傷つけてしまったのだろうか。そう思うと、急に罪悪感が紫苑を襲った。



「――相変わらずの天然だな」

急に発せられたその少し低めな声に、笑みを含めた言葉に、紫苑は電撃に打たれたような心地がした。勢いよく後ろを振り返った。
しかし、今近くで声を発したような人物は見当たらない。


ここは駅。行き交う人が大勢いて、誰が紫苑の傍で呟いたのか特定できなかった。
でも、間違いない。紫苑は直感のまま、走り出した。
「えっ紫苑!?」
「ごめんなさい、山勢さん! ぼく、先に帰ります!」
もう山勢の声は聞こえなかった。
人の隙間を縫うようにして走り進む。自分は足が遅いので、声の主に追いつけるだろうか。


――ネズミだ、間違いない。あの声はネズミだ。
声が艶を帯びたような低音になっていた。四年間、彼の声は聞いていないが、自分の直感はネズミだと叫んでいた。

「ネズミ……?」
息を切らして、辺りを見渡す。
駅構内を出ると、人の数はまばらになっていた。それでも人が多いことに変わりない。
いない。どこにもネズミらしき人物はいない。

幻聴だったのだろうか。
がっくり項垂れると、アスファルトをぽつぽつ、と雨が濡らし始めた。
ついに雨が降り始めたらしい。そう思う間もなく、ザーッと激しく音を立てる大雨に変わった。

紫苑以外の人々は駅の中に逃げ込んだり、走り出したり、鞄を雨避け代わりにしたり、傘をさしたり様々だ。
紫苑は何もできずにその場に立ち尽くす。
傍を行き交う人が、棒立ちのままの紫苑を迷惑そうに避けていく。


すると、突然雨が止んだ。いや、紫苑の頭上の雨が止んだ。
「何してんだ、風邪ひくぞ」
顔を上げると、そこには焦がれた存在があった。
「……ネズミ?」
「久しぶり、紫苑」
ネズミは傘を紫苑の上に開いて、雨を弾いてくれていた。相変わらず周りは、激しく雨が降り注いでいる。
しかし、今紫苑には雨の音など少しも耳には入ってこなかった。

「嘘……夢?」
「あんた変わらないな」
そう言って、少しだけ笑った彼はすっかり『男性』だった。

四年前に言っていたとおり、ネズミの身長は紫苑を軽く越えていた。180cm近くあるだろうか。すらりとした長身に、艶やかな黒髪を後ろで束ねている。長い指は骨ばっており、男の人の手をしていた。
四年前と同様、透き通るような白い肌に夜明け色の双眸。
彼が今身にまとっている制服は、紫苑がよく使う沿線の高校のものだ。電車内で同じ制服の子をよく見かける。
着ているだけなのに、ネズミはそれを優雅に着こなす。まるで上等なスーツのように。

そして、彼は整った容姿で紫苑に微笑むのだ。
紫苑の顔に熱が集まる。ネズミはまるで知らない男の人になっていた。



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