二人事2



紫苑は呆けたように動けなかった。
店内中から、「なんだなんだ?」「何事だ?」「どうしたんだ?」「喧嘩か?」「修羅場か?」というような好奇の視線が向けられる。


視界の隅で、店員がタオルを持って行くべきか逡巡している姿があった。



そっとしておいてくれ。
そう、思った。

ぽたり、ぽたり、髪から雫が落ちる。紫苑の周りは水たまりだ。
拭うことさえ、億劫だった。




「水も滴るいい男、か?」

美しい声が頭上から降ってきた。
まさか、そんなはずはないのに。


「……ネズミ、なんで」
どうしてここに?

固まって動けない紫苑をよそに、ネズミは店員から真新しいタオルを受け取っていた。
ふわりと優雅に広げて、紫苑の顔を覆う。

「うぷっ」
「あんた、これ紅茶じゃないか。シミになるぞ」
荒っぽく、ぐしゃぐしゃと頭を拭かれる。

「いひゃいお」
「まったく、あんた今何月か分かってる? いくらなんでも風邪ひくぞ」
「らいひょふ」
「あーあ……シャツはもう使い物にならないな」
「…………」
ネズミは紫苑のことなどお構いなしに、顔を隠すように拭いてくれている。
その優しさに気がついて、こっそり、ほんの少しだけ、泣いた。



ようやくタオルから開放された紫苑の顔を見て、ネズミはぷっと噴き出した。
「あんた、顔ひどいよ」
「誰のせいだよ」
ネズミは手ぐしで丁寧に、紫苑の髪を梳いてくれた。
「目、真っ赤」
「元からだ」

「で? なにこのデザート」
ネズミは目線をテーブルの上へと移した。
「勿体無いよね」
紫苑は自嘲気味に笑って、デザートスプーンでスフレをすくう。
その様子を見て、ネズミは先程まで彼女が座っていた椅子に腰掛けた。

「これ頼んだの、あんたじゃないだろ」
そう言いつつ、ネズミもまたデザートスプーンでチーズケーキを崩している。
「うん、まあ」
「……嫌がらせじゃないか、こんなの」
「仕方ないよ……」
「なんとなく、察しはつくけど」
「…………」
「さっきそこで、すれ違ったからな」
「……そう」


紫苑はもくもくとデザートを口に運ぶ。本来なら美味しいはずのスイーツたちは、ちっとも味を感じられなかった。
ネズミは何も言わず、紫苑に付き合ってくれている。


「なあ」
おもむろにネズミが声を上げる。目線は手元のブリュレに注がれたまま。
「なに?」
「あんたさ、おれと一緒にいたら、ずっとこんな感じだぞ」
「……そうかもしれないね」
「おれから離れる?」
「それは嫌だ」
挑むように、ネズミは紫苑を見上げていた。美しい彼は何をしても様になる。
ネズミは苦笑気味に唇を歪めて笑った。無理やり笑ったようだった。

「おれから離れたくないのか」
「うん」
「そう。それなら仕方ないな」
「うん」
紫苑もちらり、と彼を見上げる。
「あんた、おれとキスできる?」
「……うん」
「したいの?」
「………………うん」
ついにデザートを食べる紫苑の手が止まった。俯いているその顔はおろか、項、耳まで真っ赤だった。

そう、それはとっくに恋だった。
恥ずかしくて俯いていた紫苑は気づいていないが、ネズミは満足そうに、嬉しそうに、微笑んだ。


「今のあんたとキスしたら、甘そう」
「き、きみだって甘いと思うけど」
「そうか」
「そうさ」

喫茶店で自分たちは一体何の話をしているのだろうか。


「悪くない」
「? ……何が?」
ネズミの右手が、人差し指が、つん、とテーブルの上の紫苑の左手に触れた。

「あんたとキスするのも悪くない」
紫苑はネズミの瞳に囚われたまま、彼の右手を握り返した。


「今日、キスしてみようか」


今日、ネズミと紫苑の関係は変わるだろうか。
悪くない。


「それはとても良い考えだと思うよ」

紫苑はやっと、心の底から笑うことができた。


彼らだけの、二人事。



END




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