_20120627改


 人には出来ることと出来ないことがある。私は文を書き形と成すが、命を成し育むことは出来ない。
「あなた」
 私を呼ぶ妻の声が響く。小綺麗に整頓された書斎に手狭に敷かれた布団。こんなにも呟く程の声が響いて聞こえるとは、私も終わりが近付いている証拠だろうか。
「あなた、聞こえますか?」
 焦点の定まらない目で見上げれば、妻がうっすら滲んで映った。聞こえている。聞こえているとも。それさえも応えることは既に叶わない。
「あなた」
 どうか泣かないで欲しい。長年とは言い難くも、共に歩んできた妻に心底そう願った。文を書くしか能のない私に、命を成し育むことを見せてくれた愛しき者。私の頬に伝い落ちた雫が、妻のものでなければいい。私の頬を濡らす雫が、私のものでなければいい。
「……あなた──?」
 ああ、妻は果たして見つけてくれるだろうか。文机の上にぽつんと残された使い古された手帳の最後の一ページをめくってくれるだろうか。最期に耳を打った呟きに薄く微笑んで、僅かな期待を胸に目を閉じた。

(最期に文と成したものは、残してゆく君のこれからへ捧ぐ愚者のはなむけ

愚者の餞



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© 楽観的木曜日の女